そのためのインスピレーションは惜しみなく与えた。初代Mac開発チームには、ベーゼンドルファー社製のピアノ、他にもコレクションしていた日本の新版画や学生時代に学んだ美しきタイポグラフィーの世界観を惜しみなく語り与えており、どちらも開発に生かされている。特にタイポグラフィーの知見は、後にDTP(電子出版)という市場を生み、世界の出版業界を一変させるきっかけをつくった。
一度は追い出されたジョブズ。こうした姿勢は1996年の同社復帰後も変わらず、製品開発のチームにピカソの「雄牛」という作品の習作を見せ、シンプル化の手本とさせていた。
多くのテクノロジー企業が、自らのテクノロジーで、これまでにない新しい世界を生み出そうとしている。だが、ジョブズは人類がこれまでに築いてきた伝統や文化を否定するのではなく、むしろ、その礎の上に新しい高みを積み上げることを目指していたように思う。
そんな彼だからこそ、歴史や哲学、アートに対しての理解も深いし、だからこそ、人を自立させ自由にするリベラルアーツとテクノロジーを融合しようとするアップル独自の企業姿勢を生み出せた。
クックCEOは、そうしたジョブズの姿勢や価値観を間近で見てきた一人として敬意を払い守っているとは思う。ただ、本人が持つ文化的素養や奥深さでは、やはりジョブズと比べると影がさすことが多い。
■跋扈する表層的な思考
他社の経営者となると、なおさらだ。特に日本の経営者にはこうした文化芸術の価値を知る機会が学生の時分から少ない上に、一度本格的に仕事を始めてしまうと完全に切り離されてしまう人も多い。
最近になってようやく、成功した経営者の間では現代アートを買うことが流行り始めてはいるが、それはややファッションや、名声獲得、投機的な理由であることが多く、そこから得たインスピレーションを自らの血肉にできている人は少ない(一方で日本や中国の戦国史に興味を持つ経営者は多いので、もしかしたらそこを入り口にして茶道から世界を広げるのは良い方法かもしれない)。