――2003年、26歳の時に、六本木ヒルズに初出店した新業態「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション」のエグゼクティブシェフを任された。
須賀:それをきっかけに、ラスベガス、ニューヨーク、台北、パリで、次々と新店の立ち上げに責任者兼総料理長として携わりました。ロブションの下で過ごした17年間のうち、14年は海外を転々と飛び回る日々でしたね。
■「お前が残るんだ」
須賀:強烈な体験として記憶に残っているのは、六本木ヒルズでの出店です。20代で日本人で、料理長の経験はない。フランスにはロブションの愛弟子がたくさんいて、候補はいくらでもいる。腰が引ける要因はいくらでもありましたが、僕には根拠のない自信もあって、「やるか?」と挑発されると「やります!」と、応えてしまう。
でも、現実は厳しかった。フランス料理店というのは伝統的に大箱です。六本木の店は席数60で、メニューもアラカルトとコースのフルバージョン。厨房ではオーケストラの指揮者のような統率力が求められます。外国人も含んだスタッフは、みんな年上で百戦錬磨で、普通にしていたら、僕の言うことなど、聞いてはくれません。だから常に緊張して、怒っていました。
――ギリギリの状態で楽屋裏を回す中で、ある時、恐れていた破綻が起きた。
須賀:業界で「総上がり」というスタッフの離反です。「須賀が辞めなければ、自分たちが辞める」と詰め寄られて、実際、数人を残して、20人以上が一度に辞めました。それでも、店を閉めるわけにはいかない。残ってくれた人と共に不眠不休で踏ん張りましたが、「挑戦する」とはなんてつらいことなんだろうと、身に染みて感じました。
――そこで頑張れた理由は何か。
須賀:責任を取るつもりで「僕が抜けます」と運営会社に伝えたら、ロブションが「何言ってるんだ、お前が残るんだ」と、きっぱり言ってくれたことです。
ほかならぬロブション自身が、総上がりを乗り越えてきた人でした。彼は28歳で「オテルコンコルド・ラ・ファイエット」の総料理長に就任し、1千人のスタッフを統率していましたが、一気に辞められたことがあった。地獄だったと思います。でも、そんな経験があったからこそ、彼一流の料理とビジネス哲学が磨かれていった。シェフには「この人のために働きたい」と思わせる迫力が絶対に必要です。修羅場を踏み、覚悟を決めていないと、その迫力は出ないんです。