河西:上皇が公的行為を拡大したのは存在意義、それも自分というより「連なるもの」としての存在意義を意識したのだと思います。被災地に赴くことが象徴的です。上皇は、戦国時代に天変地異や疫病を鎮めるため写経をした後奈良天皇らの名を挙げ、「そういう連綿と続くものが自分の体に染み付いている」という言い方をしてきました。現在の天皇も挙げています。過去の理想的な姿を自分は実現しているということで、天皇制の正当性を認識しているのだと思います。
政治との対比もあります。メディアが政治家の「だらしなさ」を報じ、セットで被災地を訪問する天皇、皇后を伝えました。そこに道徳性が見えたから、国民が賛同したのだと思います。
木村:天皇は国民主権の「リザーブ」のように使えてしまうんです。国民主権のパフォーマンスが落ちた時、控えの選手である天皇が統治の主体として期待されます。
■国民を統合する象徴
──五輪開催が迫る6月、宮内庁長官が「開催が感染拡大につながらないか(陛下が)ご懸念されていると拝察している」と発言した。反対派からは「これで開催は見送り」という声も出た。
河西:あの発言は、「反対」と言ったわけではないところがバランスだったと思います。今のままでなければ開催してもよいとも聞こえましたし、結局、無観客での開催となりました。
木村:天皇に何かを決められる権威があるわけではないというのが私の見方です。歴史を見ても天皇は、大勢が見えた時にそれを確認して決着させる役割を果たしてきました。日本国憲法下でも「象徴」で、国民に「統合された思い」がある時に象徴することはできても、国民の総意のないところに総意を作り出すのは難しい。五輪発言でも心配の対象は感染拡大であって、開催ではない。感染拡大は、誰だって心配です。
河西:賛成と反対で国民が分断されている現状を何とかまとめよう。そういう感じを受けました。コロナ禍でご進講に行った人たちも、非常に多岐にわたっていました。国民の意識を広く吸収した上での発言で、近年の天皇は「国民の統合の象徴」でなく「国民を統合する象徴」になっていると感じます。