本作の主人公は、人気お笑いコンビ「entrance」の石山という男。極貧家庭に育った彼が、さまざまな経験を経て、芸人になるまでの過程が描かれている。フィクションという体裁をとっているが、明らかに著者自身の半生を下敷きにしていると思わせる内容だ。
本書は、下世話な興味を持って読んでもそれなりに楽しめる「よくできたタレント本」でもあるが、個人的には兼近という人間の純粋さが伝わってくる「良質な文学作品」だと感じた。バラエティ番組に出演しているときにも言葉の端々から漏れていたピュアな部分が、濃い原液として作品全体にあふれ出している。
ネタバレを避けるために具体的な記述は控えるが、幼少期や若い頃の主人公の心理描写が圧巻だった。実際にその年齢でなければわからないような感情の機微が、見事に描かれていたからだ。
人は子どもから大人になるときに劇的な変化を経験する。そして、大抵の大人は自分が子どもだった頃のリアルな感覚を忘れてしまう。どんなに必死に思い出そうとしても、「大人が想像できる範囲の子どもの心理」しか浮かべることはできない。そもそも「大人になる」とは、子ども時代の自分を失うということなのだ。
だが、兼近は子どもだったときの自分を忘れていない。というよりも、彼は子どものまま大人になることに成功した稀有な人間なのだ。兼近の言動がときに危なっかしく感じられるのは、彼が今でも子どもであり続けているからだ。
過去は忘れるべきものでもなければ、乗り越えるべきものでもない。あの頃の自分も、今の自分も、同じ1人の自分である。兼近はその事実を当たり前のように受け入れて生きている。
本作は、フィクションであると同時に、「兼近大樹」という人間そのものを丹念に掘り下げたノンフィクションの傑作である。(お笑い評論家・ラリー遠田)