久々に訪れた猫又坂の近景。都電に替わった上58系統の上野松坂屋行き都バスが眼前を登坂していった(撮影/諸河久:2021年11月3日)

 次のカットが又坂の近景で、旧景に写る氷川下町交差点(現千石三丁目交差点)角の木下薬局が現在も盛業中なのが嬉しかった。画面左端の歩道の奥に、猫又坂の由来説明板と廃橋になった猫又橋の親柱袖石が展示してある。

 1967年に実施された住居表示変更の結果、この一帯の町名は総じて「千石」になった。都電作家で、生粋の本郷っ子だった林順信氏(1928~2005)は著書『焼跡・都電・40年』の中で、「千石のいわれを聞いて驚いてはいけない。<この西方の氷川下を流れていた細流をば、こいしかわといい、戦前までの小石川区の区名にまでなっていた川は、上流を千川をばとなえるにより、千と石とをくっつけて千石とはなしたり>という解説を聞けば、いかに新住居表示がいい加減なまやかしものだかがわかる」と記述されている。往時の駕籠町、西丸町、丸山町などの町名は小学校や町会の名称として僅かに残るのみだ。

都電最急勾配の「白鷺坂」

 2020年3月28日に配信したコラムで、都電最急勾配は白山線の「白山坂」で69パーミルと記述した。その後、東京都交通局工務部軌道課の「主要坂勾配表」を閲覧したところ、護国寺線氷川下町~大塚仲町の「大塚仲町上坂」(白鷺坂が通称のため、この坂名が用いられたと推察する)の69.5パーミルが都電最急勾配と判明した。氷川下町停留所側から69.5パーミルの最急区間が58mあり、その先の33.4、45、66パーミルの坂を登ると、大塚仲町停留所が近接してくる。

白鷺坂の最急勾配区間を下り始めた20系統上野広小路行き都電。坂上の標高は28mで、坂下の標高は11mと、差し引き17mの高低差を上下することになる。大塚仲町~氷川下町(撮影/諸河久:1965年11月23日)

 白鷺坂を大塚仲町方面から下るシーンが次のカットだ。氷川下町の遠景に写っていた20系統大塚仲町行きの都電が大塚仲町で折返し、上野広小路行きとして戻ってきた。当日は勤労感謝の日だったため、上野公園方面の行楽客輸送に増便されていたように思える。大塚仲町から左にカーブを描きながら緩勾配を下り、69.5パーミルの最急勾配区間に入ったところを撮影していた。自動車交通量が少ない祭日の撮影は、自動車に被られるリスクが少なかった反面、都電の背景にあたる大塚仲町(現大塚三丁目)の商店が休業しており、生活感が乏しい描写となった。

 この坂の一帯には、宇和島藩主伊達家の下屋敷があって、庭園の大池には白鷺が群がっていたと伝えられている。明治末期の道路整備で、この旧伊達屋敷跡を現在の不忍通りの道路用地に転用して、大塚仲町方面に向かう長い坂道が竣工した。当初は坂名のないままだったが、昔からの言い伝えの白鷺にちなんで、「白鷺坂」が愛称として用いられるようになった。

最急の69.5パーミル勾配を上り終え、33.4パーミルの緩勾配区間を走る20系統江戸川橋行き都電。画面左の大塚仲町側は不忍通りの道路拡幅を免れた商店が盛業していた。氷川下町~大塚仲町(撮影/諸河久:1965年11月23日)

 最後のカットが氷川下町からの最急勾配を上り終え、33.4パーミルの緩勾配を大塚仲町に向かう20系統江戸川橋行きの都電。不忍通りの軌跡が見えなくなるような最急勾配の様子が都電の背後に展開している。画面右側の大塚窪町(現大塚三丁目)側は、道路拡幅工事のセットバックで旧来の家並が消失したが、画面左側の大塚仲町(現大塚四丁目)側には理髪店、写真店などの商店が軒を連ね、生活感溢れる昭和の風情が残されていた。

 昔日の伝説に満ちていた不忍通りの「白鷺坂」や「猫又坂」から都電が消えたのは、この撮影から5年半後の1971年3月だった。

■撮影:1965年11月23日

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