妖怪伝説の猫又坂を訪れたのは晩秋の底冷えがする祝日だった。都電の背後に登坂を始めたボンネットスタイルの日産FS580型ダンプトラックが写っている。画面左奥の氷川下町交差点角には木下薬局の店舗も見える。 氷川下町~丸山町(撮影/諸河久:1965年11月23日)
妖怪伝説の猫又坂を訪れたのは晩秋の底冷えがする祝日だった。都電の背後に登坂を始めたボンネットスタイルの日産FS580型ダンプトラックが写っている。画面左奥の氷川下町交差点角には木下薬局の店舗も見える。 氷川下町~丸山町(撮影/諸河久:1965年11月23日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、妖怪伝説のある「又坂」と都電最急勾配の「白鷺坂」を上り下りした都電を紹介しよう。

【56年が経過した現在はどれだけ変わった? いまの同じ場所の写真や「白鷺坂」の写真はこちら】

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 現在の文京区を北東から南西に横断する不忍通りに市電の護国寺線(駕籠町~護国寺)が開業したのは1921年2月だった。系統番号が設定された1928年頃には、上野公園~神明町~矢来下を結ぶ28系統が護国寺線を走っていた。戦後になると、同じ神明町車庫が所轄する20系統(江戸川橋~須田町)に変わっている。

 護国寺線の丸山町(後年千石二丁目に改称)から氷川下町(後年千石三丁目に改称)を経て大塚仲町(後年大塚三丁目に改称)に至る区間には、本郷(白山)台地から千川通りに下る猫又坂と千川通りから小石川台地に上る白鷺坂の急勾配があり、急坂を力走する都電の姿が見られた。

妖怪伝説が残る「猫又坂」

 冒頭の写真は、氷川下町停留所を発車して、最急勾配68パーミルの猫又坂に挑む20系統上野広小路行きの都電。画面左後方には氷川下町停留所に停車する20系統大塚仲町行きも写っている。画面右側一帯が丸山町で、手前に見える石垣が終戦時に内閣総理大臣を務めた鈴木貫太郎氏の邸宅だった。

 路面電車が走り出す前の不忍通りは急峻な細道だった。坂を下ったところが千川谷と呼ばれる窪地で、千川または小石川といわれる川が流れていた。江戸期の昔、千川はとても細い流れなので、木の根っ子の股で千川に架橋したことから根子股橋と呼ばれた。この辺りには狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある日暮れ時、大塚辺の少年僧がこの近くを通ると、草原から白い獣が追ってくるので「すわ、狸か」と慌てて逃げて千川にはまった逸話があり、それからこの橋は猫狸(ねこまた)橋とも猫又橋ともいわれるようになった。ちなみに、猫狸とは妖怪の一種に数えられている。

 このような伝説のある猫又橋と繋がっていた坂なので猫又坂と命名されたようだ。現在の不忍通りが開通したのは市電の開業と軌を一にしており、猫又橋は開通直前の1918年にコンクリート橋に改築されている。後年、千川は度重なる水害に見舞われたため、暗渠化工事が1934年に施工され、猫又橋は廃橋となった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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