松田聖子
松田聖子
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 1980年のデビューから、数々の伝説を作り続けてきた「永遠のアイドル」松田聖子。その誕生は、一本のカセットテープがきっかけだった。聖子の才能を見いだし、二人三脚で歩んできたプロデューサーの若松宗雄さんに話を聞いた。

【写真】デビューシングル「裸足の季節」と、2枚目のシングル「青い珊瑚礁」のレコードジャケット

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 赤いペンで<福岡><青島 荻田 蒲池>とレーベル面に書かれた一本のカセットテープ。1978年5月。日本の音楽史に残る歌手の物語は、このテープから始まった。

<蒲池>とは蒲池法子、そう、松田聖子の本名だ。

 CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックレコーズ)と雑誌「セブンティーン」が共同開催していた「ミスセブンティーン」コンテスト。のちに聖子をプロデュースしデビューさせた若松宗雄さんは、その歌唱コンテスト用に集められたテープの山を一本ずつ再生し、少し聴いては早送りすることを繰り返していた。

「一声、二声聞けば、だいたいわかります。声がよくないなとか、歌はうまいけどいまひとつ魅力がないなとか」

 若松さんはそう当時を振り返る。そんな作業の中、早送りの手が思わず止まった。

「どこまでも続く南太平洋の青空と海の世界が広がりました。まさに、『青い珊瑚礁』の世界でした」

 彼女が歌っていたのは、桜田淳子のヒット曲「気まぐれヴィーナス」だった。そんな聖子との出会い、そしてスターへの道を二人三脚で駆け上がった経緯を記した若松さんの著書『松田聖子の誕生』(新潮新書)にも、その声の衝撃は、テンション高く活写されている。

<声量もある。かわいさもある。存在感もある。聴いているだけで胸が高鳴り、どこか楽しい場所へと出かけてみたくなる>

 この時点では、聖子の顔すら知らなかった。

「本当に声だけでした。その質感、強さ、色合い、メッセージ性、それらが他の子たちとは全く違って聞こえました」

 すごい声を見つけてしまった。そう直感した若松さんだが、社内では「悪くはないけれど」程度の反応しかなかったという。

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