「写真はごく普通の高校生という感じでしたし、歌声の持つ資質を見抜ける人もいませんでした」
ともかく声の主に会おうと、若松さんは福岡に飛んだ。
「紺のワンピース姿でお母さんと一緒でした。清楚な雰囲気で、写真で見たよりいいなという印象。そして実際に聖子の声を聞き、絶対にいける!と確信しました」
観光会社から舞台制作会社オールスタッフの制作部、CBS・ソニーの営業担当という経歴を経てプロデューサーとなった若松さん。初めて制作を担当したのはキャンディーズ9枚目のシングル「春一番」(76年)。その後、キャンディーズの「哀愁のシンフォニー」や「やさしい悪魔」、渥美二郎の「夢追い酒」やドラマ「熱中時代」の主題歌「ぼくの先生はフィーバー」などヒット曲を手掛けた。
「だけど、どれも他の人から引き継いだ仕事で、自分の耳と目で、一から見つけて当てるという経験はありませんでした」
そんな中で出会った運命の声。しかし聖子本人に、その自覚はなかった。
「歌が好きで、芸能界に入りたい。それだけなんです。自分の歌声が際立った持ち味になっているとは思っていなかった」
芸能界入りに猛反対していた父親への説得を粘り強く続けた結果、ようやく上京。所属事務所はサンミュージックに決まり、80年4月1日、「裸足の季節」でデビューする。この曲は洗顔料のCMソングとして採用され、「♪エクボの」というサビの出だしとともにお茶の間に強い印象を与えたが、CMには聖子本人は出演していない。「エクボができないから」という理由だった。オリコンや「ザ・ベストテン」での順位はトップ10には届かなかったが、「フレッシュで可愛い曲です。CMは話題になり、クレジットされる松田聖子という名前も印象づけることができました」(若松さん)
アイドル評論家の中森明夫さんはこう回想する。
「つまり、松田聖子という存在は、多くの人にとってはまず声から入ってきたということ。あのCMに出ているモデルが松田聖子だと思った方もいたようです。『裸足の季節』のサビのフレーズがとにかく印象に残り、“松田聖子”という名前も人々の記憶に刻まれました」