週刊朝日 2022年11月4日号より
週刊朝日 2022年11月4日号より

■アイドル枠超え歌姫の先駆けに

 松田聖子が日本を代表するシンガーに成長していく過程では、楽曲制作陣の功績が大きかったと中森さんは指摘する。

「まず大きな存在が、聖子さんの多くの曲の作詞を担当した松本隆さん。松本さんがかつて所属したバンド・はっぴいえんどのメンバーだった大瀧詠一さん、細野晴臣さんに、松任谷由実さん、財津和夫さんなどを加えたサウンドチームが作り上げられ、シンガー・松田聖子の世界観が確立されていった。そこに彼女の資質である声質や髪形やファッションへの意識の高さなどが合わさり、これまでのアイドル歌手とは全く違う存在が作り上げられていきました」

 楽曲制作に多彩な音楽人たちが集められた背景にも、若松さんの“深謀遠慮”があったという。

「大きく売れる歌手には、音楽的な魅力と大衆的な魅力の両方が必要。聖子は元々大衆的な魅力は持っていたから、そこに音楽的な魅力を取り入れていこうとしました。聖子がすごいのは、誰が作った歌でも、全部自分のものにしちゃうところですね」(若松さん)

 聖子がスターダムを駆け上がっていく中、若松さんも多忙な日々が続いた。当時は、プレッシャーを感じる暇すらなかったという。

「ひたすら、『次の曲はどうするか』『アルバムは誰にどんな曲を頼もうか』って考えるのが面白くて仕方ありませんでした。ユーミンに、『若松さんは、聖子ちゃんに命かけてるからね』と言われたこともある(笑)。こっちはただひたすら動いていただけなのですが、その姿がそう映ったのでしょうか」

 80年代半ばに結婚、出産を経験した聖子。「ママドル」という言葉とともに、年齢を重ねてもアイドル的要素を持つシンガーであり続けたのもまた、先駆的だった。中森さんはこう評価する。

「アイドル的存在であるだけでなく、作詞やプロデュースなどにも意欲的に取り組むようになっていった。宇多田ヒカルや椎名林檎、MISIA、安室奈美恵など、のちにディーバや歌姫と呼ばれるような存在が出てくる道を切り開いたのが、松田聖子だったと思います」

 青春時代に聖子の曲を聴いて育った世代も今や50~60代。経済的にも上り調子で、明るかった当時の日本を記憶している最後の世代と言える。

「昭和の記憶とともにある最後のスターだという気がします。その後、ソロアイドルというジャンルがすたれたこともあり、松田聖子という存在には後継者も存在せず、結果的にワンアンドオンリーになった。聖子さんは、自分自身がいなくなったら消えてしまう世界観を、ずっと一人で守り続けてきたんです」(中森さん)

 松田聖子という存在そのものが一代限りのジャンルになったのかもしれない。(本誌・太田サトル)

週刊朝日  2022年11月4日号