今昔対比撮影は銀座三越の取材協力で実施され、地球儀広告塔の解体作業が始まった絶好のタイミングだった。数寄屋橋方面の高架橋を走る東海道新幹線も画面の中に取り込んだ。(撮影/諸河久:1983年1月25日)
今昔対比撮影は銀座三越の取材協力で実施され、地球儀広告塔の解体作業が始まった絶好のタイミングだった。数寄屋橋方面の高架橋を走る東海道新幹線も画面の中に取り込んだ。(撮影/諸河久:1983年1月25日)

燦然と輝く地球儀広告塔

 画面の右手前が銀座を代表するランドマークの和光本館で、1932年に竣工したレジェンドとして、2009年に近代化産業遺産に認定されている。晴海通りを隔てた筋向いに目を転じると、9階建ての不二越ビルの屋上には「銀座の地球儀」と呼ばれた森永製菓の地球儀広告塔が設置されていた。

 拙著『都電の消えた街 下町編』(1983年大正出版刊)の共著者だった林順信さんによると、地球儀広告塔は1953年4月に竣工し、直径11m、高さ12mで、使用したネオン管の長さの合計は3000mに及んだそうだ。夜の帳がおりると七色の星が瞬き、燦然と輝く地球儀のネオン塔は敗戦で打ちひしがれた人々に夢と希望を与え、戦後の新たな銀座名物として全国に喧伝された。

 旧景撮影から20年を経た今昔対比のため、銀座三越に申請した撮影が許可された日の朝刊に偶然にも「地球儀ネオン解体」のニュースが報じられ、絶好のタイミングで撮影したのが次のカットだ。足場で囲まれた球形の鉄骨の上には解体作業員の姿も見えている。前出の林さんはこの写真を見て「戦後の銀座はこれで一区切り終わったんだ」と感慨を述べられていた。

6両の都電が行き交う銀座通り

「毎度ご来店ありがとうございます」と笑顔のエレベーター嬢に運んでもらった銀座三越屋上からは、手軽に銀座の街の景観が楽しめた。転落防止手摺の間隔が粗く、隙間から容易に一眼レフカメラのレンズを突き出すことができたのも幸いだった。

銀座三越屋上から撮影した新橋方面の銀座風景。右端が営団地下鉄(現・東京メトロ)銀座線・銀座駅出入口、その脇には銀座五丁目の名店舗が連なっていた。手前は銀座四丁目停留所で発車を待つ4系統五反田駅前行きの都電。(撮影/諸河久:1963年9月14日)
銀座三越屋上から撮影した新橋方面の銀座風景。右端が営団地下鉄(現・東京メトロ)銀座線・銀座駅出入口、その脇には銀座五丁目の名店舗が連なっていた。手前は銀座四丁目停留所で発車を待つ4系統五反田駅前行きの都電。(撮影/諸河久:1963年9月14日)

 屋上の南西方に移動して、銀座七丁目方面を写したのが次の写真だ。銀座通りに敷設された本通線には6両の都電が写っており、銀座通りの路面交通の充実ぶりを実感できるだろう。手前から4系統五反田駅前行き、40系統神明町車庫前行き、22系統新橋行き、22系統南千住行き、22系統新橋行き、22系統南千住行きが行き交っていた。新橋から京橋まで、銀座通りを頻繁に走る1・4・22・40系統の都電にチョイ乗りすれば、都電による「銀ブラ」を存分に楽しめた佳き時代だった。

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