画面右側には高層化前の銀座の街並みが写っている。手前から鳩居堂、日本堂、大黒屋、オリンピックと二階建て商家が並び、ビル化工事中のワシントン靴店の先に銀座スエヒロ、文明堂と続いていた。いっぽう、画面左側に視点を移すと、建て替え前の銀座ライオンビアホールの屋根裏が劇場の舞台裏のように覗いていた。

望遠レンズの屋上撮影

 母校の文化祭に展示した銀座三越屋上からの地下鉄工事シーンが話題になった頃、日大の大先輩であられた吉川文夫氏(1932~2007)が「鉄道ファン29号(1963年11月号)」誌上に「撮影地ガイド デパートに上がろう―屋上から電車をうつす―」を寄稿された。趣味活動の会合で旧知の吉川氏から寄稿エピソードを伺うと、「諸河君は高性能の望遠レンズを常用しているのだから、デパート屋上からの都電撮影にも応用して欲しいなぁ」という提言をいただいた。

 吉川提言に応えるべく、望遠撮影には絶好の冬晴れ日に「タクマ―200mm F3.5」望遠レンズを装填したアサヒペンタックスを携行し、半年ぶりで銀座三越屋上に上った。

板っぱり道路と揶揄された晴海通りを走る11系統築地行きの都電。1964年になると残土搬出櫓も使命を終えて解体されていた。ちなみに、旧景から視認できた最盛期の搬出櫓は13基を数えた。数寄屋橋~銀座四丁目(撮影/諸河久:1964年2月1日)
板っぱり道路と揶揄された晴海通りを走る11系統築地行きの都電。1964年になると残土搬出櫓も使命を終えて解体されていた。ちなみに、旧景から視認できた最盛期の搬出櫓は13基を数えた。数寄屋橋~銀座四丁目(撮影/諸河久:1964年2月1日)

 最後の二枚が200mm望遠レンズで捉えた作品。板っぱりの晴海通りを走る都電と、オーソドックスな敷石の銀座通りを行く都電を撮影している。200mmレンズは肉眼と大いに異なる視点で都電を描写してくれた。

オーソドックスな敷石軌道の銀座通りを走る1系統上野駅前行きの都電。軽量化された8000型の四角い車体が、冬の斜光の中に浮かび上がった。銀座七丁目~銀座四丁目(撮影/諸河久:1964年2月1日)
オーソドックスな敷石軌道の銀座通りを走る1系統上野駅前行きの都電。軽量化された8000型の四角い車体が、冬の斜光の中に浮かび上がった。銀座七丁目~銀座四丁目(撮影/諸河久:1964年2月1日)

■撮影:1963年9月14日

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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