姜尚中(カン・サンジュン)/東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史
姜尚中(カン・サンジュン)/東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史
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 政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。

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 ロシアのウクライナ侵攻から半年。停戦のメドすら立たない消耗戦は、冷戦崩壊後の世界の歴史を塗り替える決定的な分岐点になりそうです。ロシアのウクライナ侵攻と、さらに台湾問題を契機とする中ロの接近・連携の強化は、NATO(北大西洋条約機構)と日本を含めた「西側」の東アジア諸国の地政学的な連携を促し、中ロの勢力を削ぐ国連改革への決定的なモメンタムになろうとしています。それはドイツと日本の、軍事大国化への歯止めを取り払うことになりそうです。

 このプロセスの進展とともにドイツでは、旧ソ連邦・ロシアとの緊張緩和と共存共栄を目指した「東方政策(オスト・ポリティーク)」の見直しとその批判が進み、シュレーダー元首相やブラント元首相といった社会民主党のリーダーへの批判的な再評価が進みつつあります。その上、メルケル前首相といった中道保守の指導者への風当たりも強くなっています。日本では中国脅威論がこれまでになく現実味を帯び、戦後の安全保障政策の核となる専守防衛が揺らぎ、防衛費の急激な増大と憲法改正への機運が勢いを増しています。「核共有戦略」すら、その延長上に唱えられるに至っているのです。

 歴史を遡(さかのぼ)れば、ブラント元首相のブレーンで「東方政策」の事実上の生みの親であった故エゴン・バール氏は、1969年、西ドイツ外務省政策企画部長として来日した折の、日本側のカウンターパートナーと協議した感触を認(したた)めています。その「記録文書」によれば、日本側では「核武装潜在能力」の取得は当然視され、また憲法改正もいつかは避けられないという見解で一致していたそうです。バールの「記録文書」の指摘は当時の佐藤栄作内閣の実際の政策と矛盾しており、文書を客観的にどこまで裏付けられるのか疑問の余地がありますが、ロシアのウクライナ侵攻と「台湾有事」の想定の下、バールの指摘する日本の安全保障政策の「密教」の部分が、今や「顕教」に転換しつつあると言えます。明らかに「西側」諸国の間では、現在の中ロは、戦前の日独の位置づけを与えられつつあるのです。

 ロシアのウクライナ侵攻は、歴史の巨大な転換となるに違いありません。

◎姜尚中(カン・サンジュン)/1950年本市生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了後、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授などを経て、現在東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍

AERA 2022年9月12日号