『深夜特急』の中でアフガニスタンの荒野をバスがひた走るシーンがある。土埃をあげてバスが疾走していると、羊飼いの羊を守る犬が、突進してくる。ぎりぎりまでくると羊飼いの口笛で、犬は踵を返して羊の群れに戻っていく。26歳だった沢木はなぜか涙が流れてしかたなくなるのだが、これはとりわけ胸に迫るシーンだ。
そうした光景は「歌枕」のように、西川に話を聞いている1990年代も、今も、幻の中にしか存在しないのだが、西川も東チベットのカム地方を巡礼していたときに、同じ経験をしたと強く反応する。そしてインタビューが始まり、四半世紀の発酵の期間をへて、今回作品「天路の旅人」として結実した。
ところで、SFCの彼女は今ではプロの校閲者になっている。
そして現在も休暇の度にアジアを一人で旅している。彼女にとっては、『深夜特急』に描かれたアジアの街の情景は、今はもう存在しなくても「どうしたらそこにいけるだろうか」と想像力によって行くことのできる「現代の歌枕」なのだ。
西行の旅と芭蕉の旅、沢木の旅と西川の旅、そして我らの旅。旅は互いに呼応する。
下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文藝春秋)など。
※週刊朝日 2022年9月9日号