「有名な人物や誰もが知っている事件を書くことならば、並の能力があればできるんだよね。本当に優れた才能というのは、誰も気がついていないところに物語を見つけてそれを編んでいくことができる人」
しかし、そうした作品は、まず企画を通すのに苦労する。有名な人物の評伝ではないので、営業も事前に数字を読みにくいからだ。
柴橋も、「歌枕」という抽象的な概念を、2022年の現在に展示会の形で披露することに苦労した。まず企画が通らなかった。学芸部内の会議で、5回提出したが、「わかりにくい」「それで一般の人々に伝わるのか」と却下された。「歌枕」の企画は、今年4~6月に同美術館でやっていた「北斎」のように、一人の人物をクローズアップするわけではない。
そこで、柴橋が見つけ出してきた物語が「旅」だった。
歌枕は、平安の初期に、各地で詠まれた歌を集めた古今和歌集などによって成立する。その歌枕の土地を鎌倉初期に実際に訪ね歩いたのが、西行(さいぎょう)法師だった。23歳で出家し、諸国を行脚した西行の半生は、その死後50年で、伝説となり絵巻物の創作がなされていた。
この西行の「旅」は後の歌人や俳人を大いに刺激していたことに柴橋は気がつく。
西行よりくだるところ120年、時宗の開祖一遍上人は、「白河関」を訪れ、西行にならって関所の板に歌を詠んで書きつけている(『一遍上人絵伝』)。そして松尾芭蕉は、西行の旅から500年を経て、西行の訪ねた「歌枕」の地を陸奥に訪ねる旅に出かけるのだ。
『奥の細道』である。
その『奥の細道』では、歌枕のひとつである「壺碑(つぼのいしぶみ)」の地、多賀城を訪ねた時の感動が綴られている。
<昔からよみ残された歌枕は世に多く語り伝えられているとはいえ、山は崩れ、川は流れが変わって、道も改まり、石は埋まって土中に隠れ、木は老い朽ちて若木に植えかえられたりしているので、時が移り変わって、今ではその遺跡のはっきりしないものばかりであるのに、この碑に至っては、まさしく疑いもない千古のかたみというべく、今まのあたりに古人の心を検め偲ぶ思いがする>(現代語訳は潁原退蔵・尾形仂『新版おくのほそ道』による)