宇喜多氏の軍勢は、家中騒動で残った兵と新たに加わった牢人衆たちで構成されていた。兵力は西軍の中では2番目に相当する、約1万7000人を率いていたといわれている。ところが、宇喜多氏の率いる大軍の実態は、「家来区区」というものだった(「吉川家文書」)。「区区」には、「まとまっていない」という意味があるので、宇喜多軍は崩壊状態だったのだ。 島津氏は西軍から大いに期待されていたが、慶長四年に勃発した庄内の乱で家中は混乱しており、義弘も兄・義久との関係が良好ではなかった。その影響もあって、義弘が率いた軍勢はわずか200余に過ぎなかった。
義弘は国元に何度も繰り返し援軍を要請し、軍勢は1000弱にまで増えた。しかし、その数では十分ではないので、重ねて増員を要請したが、叶わなかった。その後、400人弱ほど増えたが、それは義勇軍のようなもので、義久から正式に派遣されたものではなかった。 結局、島津氏は関ヶ原本戦で、満足な戦いができなかった。
このような状況では、すでに戦う前から、西軍の敗北は決定的であったといえよう。それは、当日の戦いで挽回できる問題ではなく、負けるべくして負けたといわざるを得ないのだ。