関ヶ原合戦当日の戦況については、定説とされていることが実は事実ではなかった、という事例が少なからずある。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.16』の特集「関ヶ原合戦ドキュメント」から、ここでは合戦の流れを時系列で追いながら、謎をひも解く。
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関ヶ原合戦の「謎」
1.「小早川秀秋は開戦と同時に寝返った」というのは本当か?
2.「小早川隊に向けられた家康の問鉄砲はなかった」説の真偽とは?
3.三成の腹心・島左近はいかにして討ち死にしたのか?
4.なぜ、西軍は敗れたのか?
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関ヶ原合戦は、井伊直政部隊の突撃により開戦した。松尾山に陣取った小早川秀秋は、いちおう西軍に属したかたちになっていたが、形勢を睨んですぐには動かなかったという。
通説によると、秀秋は最後まで東西両軍のいずれに与するか去就を明らかにしていなかったという。しかし、徳川家康から出陣を促す「問鉄砲」を打ち込まれると、慌てて松尾山を駆け下り、大谷吉継の陣営に突撃したと伝わる。その時間は、正午頃と言われている。果たして、それは事実なのだろうか。
慶長五年に比定される九月十七日付の石川康通・彦坂元正連署書状写(松平家乗宛)には、家康が(巳の刻)午前10時に出陣して一戦に及んだことが記されている(「堀文書」)。重要なのは、その続きに書かれたことである。
それは、開戦と同時に秀秋、脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子が家康に味方して、西軍を裏切ったということだ。開戦の時間は(巳の刻)午前10時なので、秀秋が東軍に攻め込んだのは同じ時刻になろう。したがって、従来説の正午頃に戦いを開始したという説は、誤りなのである。「堀文書」の記述を裏付けるのが、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』である。同書によると、開戦と同時に西軍に与していた諸将が東軍に寝返ったと書かれている。その中には、秀秋の名前があるので、間違いないとみてよいだろう。