その直後、東軍の長政、細川忠興、田中吉政の軍勢は、三成の部隊に攻撃を仕掛けた。三成は陣頭指揮を執り、一時は東軍を押し返すような奮闘ぶりを見せた。しかし、徐々に劣勢となり、少しずつ後退していった。左近も大いに奮戦したが、ついに力尽きて敵に討たれた。左近の最期については、諸書によってさまざまな説がある。

 左近の戦いぶりは鬼人のような迫力があったので、徳川方は「誠に身の毛も立ちて、汗の出るなり」と恐怖したと伝わる(『常山紀談』)。しかし、『常山紀談』は後世の編纂物なので、かなり誇張があると考えられる。

 また、左近は奮戦の末に鉄砲に撃たれて怪我をし、壮絶な戦死を遂げたと記す史料も残っている(『関原軍記大成』『落穂集』)。なお、『関ヶ原軍記』には、左近のその後の消息が不明であると書かれている。

 左近は戦場で死なず、生き残ったという説もある。戦場を離脱した清興は京都で潜伏生活を送り、寛永九年(1632)に亡くなったというのだ(『古今武家盛衰記』)。左近の最期ついては諸説あるが、生き残ったということはとても信じがたいので、戦場で亡くなったと考えてよいだろう。

 朝8時頃に始まった合戦は、おおむね正午頃には終結し、東軍の勝利に終わった。なぜ、西軍は敗北を喫したのだろうか。 関ヶ原合戦の当日の戦いぶりは、おまけのようなものにすぎない。むしろ、その前段階の政治的な駆け引き(=多数派工作)において、家康が勝利したといっても過言ではない。家康は黒田長政らを使って、西軍に与していた毛利氏、小早川氏を自陣に引き入れた。この時点で、家康の勝ちである。

 一方の西軍は政治的な駆け引きで負けただけでなく、各大名の家中が崩壊していたことにも敗因があった。

 宇喜多秀家は慶長四年末から翌年初めにかけて、家中騒動により、著しく家中が弱体していた。秀家は備前・美みま作さかの留守を家臣に任せていたが、心配だったのか、彼らから人質を徴収した(「新出らも、辛うじて自陣に撤退するような状沼元家文書」)。宇喜多家中の弱体化は進行し、宇喜多家を去った花房氏や戸川氏は、東軍に従うありさまだった。

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負けるべくして負けた