では、「問鉄砲」についてはどうなのだろうか。最初に「問鉄砲」の逸話を紹介したが、記載された諸書によって多くのバリエーションがある。本章の冒頭に記載したものが、もっともよく知られたもので、小説、映画、テレビドラマなどでおなじみのものである。

 もっとも肝心なことは、当時の書状・記録類(一次史料)に「問鉄砲」の記述がないことである。われわれが知る「問鉄砲」は、すべて後世の編纂物(二次史料)に拠るものなので、慎重な検討が必要であろう。

 そもそも「問鉄砲」を撃った主体としては、藤堂高虎部隊のほか、京極高知部隊、福島正則部隊など、さまざまである(共同で撃ったというパターンもある)。撃った人数、射撃者の装束や人数もいろいろなのである。つまり、史料に拠って一定しないのだ。

 問題なのは、冒頭に記したように「問鉄砲」に「効果があった」という史料(『関原物語』など)がある一方、『石田軍記』などのように「効果がなかった」という史料も存在する。結論を言えば、先述のとおり、秀秋は開戦と同時に東軍に攻め込んだのだから、「問鉄砲」はなかったと最新の研究で指摘されている。「問鉄砲」とは、家康の武功を強調するために捏造され、広まったというのが現段階における見解である。

壮絶な戦死から生存説まで諸説ある
島左近の「その後」

 東西両軍が乱戦となるなか、西軍を率いた石田三成はどうなったのだろうか。配下の島左近(清興)の動きから確認しよう。

 九月十五日の午前8時に東西両軍が激突すると、石田三成の部隊は、黒田長政の部隊の対面に陣を置いていたので、左近は長政の軍勢と戦った。

 左近は部隊を二手に分けると、片方の部隊には三成の部隊を守らせ、自身は残りの片方の部隊を率いて長政の部隊へと向かった。長政の部隊の菅六之助は左近の出陣を確認すると、鉄砲隊を率いて丘に登り、左近の部隊をめがけて射撃したのである。

 左近の部隊は予想すらしなかった銃撃で不意を突かれ、たちまち総崩れとなった。そこに東軍の生駒一正、戸川達安の鉄砲隊が援軍にやって来たので、たちまち左近の軍勢は窮地に陥った。左近は全身に銃弾を受け、瀕死の重傷を負いながらも、辛うじて自陣に撤退するような状況だった。

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