三嶋大社境内にある「源頼朝・北条政子の腰掛石」平家追討祈願の折利用したと伝わる
三嶋大社境内にある「源頼朝・北条政子の腰掛石」平家追討祈願の折利用したと伝わる
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 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、いよいよ源頼朝が挙兵を決意し、鎌倉幕府が開かれようとする時代へと移ってきた。関東の神社仏閣を巡っている筆者にとって、源頼朝という名は、彼の信心深さのせいか数多くの寺社の歴史の中に刻まれている。この平家に対する挙兵の際、頼朝は伊豆国一宮・三島大社に大願成就の祈願をしている。

頼朝と三島神社のつながり

 頼朝が永く流されていた地が伊豆国であったことで、三島大社を特に大事に考えていたのだろうが、この後も正室・政子の安産祈願など折に触れ神馬を奉納したり、寄進を重ね、大社の宝物には頼朝や政子ほか名だたる武士たちからの寄進物が残されている。

 挙兵後、頼朝は一度「石橋山の戦い(小田原市)」で大敗を喫し敗走、この時頼朝を匿ったのが箱根権現(現・箱根神社)の別当(管理する寺)だったと言われる。そして真鶴半島から房総半島へとかなり味方を失った状態で逃れるが、安房国で支援を得て再び進軍する。この上昇気流に乗った進軍の道々に、頼朝伝説が残る三島神社が残されている。中でも宿原の三島神社には「棒術と羯鼓舞」という無形民俗文化財が残っており、これは頼朝の家臣が残した奉納試合が元になっていると伝わっている。また、進軍の道筋と考えられている土地には、三百騎坂、千騎坂、白旗台(白旗は源氏の旗)といった地名が残っていて、頼朝が力を盛り返してきた様子をうかがい知ることができる。

自然災害が頼朝に味方した

 頼朝は敗走からほぼひと月で鎌倉入りを果たし、その年の12月には大倉御所(頼朝の邸宅)が置かれた。そしてそのわずか3カ月後に平清盛が死去、2年後には平家一門が都落ちをするのである。

 頼朝が挙兵した1180年、全国を旱魃が襲い翌年にはひどい飢饉に見舞われた。加えて京都を中心に戦さが各地で広まり、食糧難に拍車がかかり、都にも餓死者が溢れ、遺体の回収すらままならない状態だったという。そのような中、頼朝は朝廷へ年貢を納める約束をすることで、東国での支配権を得た。清盛の不在は朝廷の解決能力の低下につながり、鎌倉時代への歩みを大きく進めたといえるだろう。

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