伊藤は博士論文を下敷きにした『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』という本こそ著しているが、この数年の話題作は、視覚障害を扱った『目の見えない人は世界をどう見ているのか』、吃音(きつおん)を持つ人にインタビューをした『どもる体』、さまざまな障害との独自の向き合い方を聞き取った『記憶する体』など、心身に何かしらの障害がある人々の「固有性」について徹底的に詳細を聞き取り、観察し、記述する作品が多い。「人間の体」の不思議さと、それを抱えている人々の悲喜こもごも、生きるための工夫や実践や実験を独自の表現で社会へ伝えていく。
美学者として哲学などを学び、「言葉にしにくいものを言葉で解明していく、いわく言いがたいもの、感じられているのに言葉にできない、わかっているけれど、言葉にできないものを言葉にしたくなる」訓練をしたことで、「手が腫れたがっている」というような、当事者も無意識に使う言葉を聞き逃さない術を身につけた。
最近では、物理を研究し、心と命の探求を試みる江本伸悟、究極の身体ケアが必要とされるALSの母親との日々を記録した川口有美子、探検家の角幡唯介、「独立研究者」の森田真生など、一見すると他領域の論者とも積極的に公開で言葉を交わし、自分の「研究」の発展性や可能性、社会への溶け込み方をさぐっている。
伊藤自身に軽い吃音があることが、ままならない体へ興味を持つ一つのきっかけとなっている。普段の会話や授業などで大きな問題にならない「隠れ吃音」ではあるものの、自分の中で吃音をやりくりしている感じがあるという。
伊藤の言い方を借りれば、「体が先に行ってしまっている」人たち、つまり、心ではこうありたいと願っても、体がコントロールできず、ままならない状況にある人たちは、障害を抱えた体とともに生き、無数の工夫を重ね生きている。それは、自分の体を少しでも居心地のいいものにするために、唯一無二の代替できない体にしていくこと、思い通りにならない体に対して悲観と肯定をおりかさねていくという言い方もできる。体と付き合っていく時間の堆積がその人の身体的アイデンティティーをつくると思う、と言う。
「先に、目が見えないとか、耳が聞こえないとか、どもるっていうのがあって、そこから生きることが始まる。体の状態に感情を持ちすぎてしまうと──感情ってすでに判断を含んでいますよね──思考停止になってしまいがちで、新しい世界が見えなくなる可能性があると思うんです。自分の認識が先にあって、そこに体を当てはめているというのではなくて、体がすごい先に行ってしまっている状況のほうに、結果的にすごい豊かさのようなものを発見すると、宝石を見つけたという気持ちになります」