哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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経済学者の石川康宏さんとの往復書簡形式で『若者よ マルクスを読もう』という本を出してきた。『共産党宣言』から『資本論』までマルクスの主著を中高生にもわかるようにていねいに解説するという趣旨のものである。始まってから15年かけて、ようやくこのたび『資本論』の解説でシリーズ5巻が完結することになった。
私は「中高生にもわかるように解説する」という仕事が大好きで、そういう本を何冊も書いてきた。
でも、研究者の中にはそういう仕事を「啓蒙(けいもう)書」と称して、見下す人がいる。「蒙を啓(ひら)く」という言葉も、入門書を「研究論文より価値が低い」とみなす態度も、ずいぶん傲慢(ごうまん)だと私には思われる。中高生にもわかるように書くというのはそれほど易しい仕事ではないからだ。専門用語が使えないし、内輪の語法も「周知のように」も通らない。基本的な概念を一つ一つ噛(か)んで含めるように説明しなければならない。
「噛んで含めるように」というのは、「ものごとの根源に立ち還(かえ)って」ということである。「ものごとの根源に立ち還って、自分の身体がその意味を熟知している言葉だけを用いて説明する」という作法を私は橋本治さんに学んだ。
橋本さんの骨法に倣(なら)って、私はできるだけマルクスの用語を使わずに、自分の言葉でマルクスの思想を説明するようにした。
かつてわが師エマニュエル・レヴィナスの口から「マルクスの思想をマルクスの用語を使って語るのがマルクシスト(marxist)で、マルクスの思想を自分の言葉で語るのはマルクシアン(marxian)である」という独特の定義を聴いたことがある。この定義に従えば、私は「マルクシアン」である。そして、この立ち位置は「中高生にもわかるようにマルクスを説明する」という仕事にはまことに適切なもののように思われる。