その頃、テレビをはじめとするマスメディアは、新型コロナウイルスのニュースで持ちきりでした。有名人の死や医療従事者への差別の問題など、暗い話で埋め尽くされていました。
これまで当たり前だった病院での面会がなくなり、また病院への受診控えもあったため院内はとても静かでした。
皮膚科医である私もコロナ患者さんの皮膚症状を診察する機会があり、重度のプレッシャーと緊張感の中で診療をしていたことをいまでも覚えています。
どんよりとした気持ちで過ごす病院でも、安田さんが治療で入院する期間は病棟が明るくなりました。
「ありがとね」
と、私や看護師に口にする安田さんはみんなから愛される患者さんでした。
なので、脳に転移が見つかったとき、安田さんやご家族だけでなく私たち医療従事者もショックを受けました。
いまなお多くの皮膚がんは脳に転移すれば厳しい予後を迎えます。新しい免疫療法が使えるとはいえ、希少がんは治療の選択肢が限られています。頼みの免疫療法が効果に限界を迎えれば、積極的に行える治療法がほとんどありません。
さらにこのときは、コロナの病院内クラスター発生が頻繁に起きていた頃で、緩和ケアを行う病院への転院もすぐにはできない状況でした。
家族との面会ができない、自宅近くの病院に移ることもできない、次第に体調が悪化していく安田さんにとって病院生活はつらかったことでしょう。
安田さんが横たわるベッドの隣で椅子に腰かけ、窓の景色を見ながら治療について相談していたときのことです。
体調が悪かった安田さんにはいつもの明るさはありませんでした。
「先生」
小さな声でつぶやきました。
「わたし死ぬのかな」
そう言うと、安田さんの頬には一筋の涙が流れ落ちました。
そこから安田さんはずっと黙ったまま天井を見つめていました。
私はなにも返事をすることができず、ただただ隣に座っていました。
数日後、安田さんは静かに息を引き取りました。