山本教授によると、入れ墨を彫る文化が確認できるのは縄文・弥生時代。土偶や埴輪を手がかりに、装飾目的や同じ集落に生きる人々のアイデンティティーを示す意味合いがあったと考えられているという。
だが、そうした入れ墨文化は6世紀後半には途切れた。
「なぜ消えたかは謎なのですが、1000年以上の長い時を経て、17世紀の江戸時代に入ってから復活しました。上方(京都や大阪)の遊女が、客の名前を腕に小さく彫るようになったのです」(山本教授)
固定客をつけるための「営業」であったとみられる。
第8代将軍徳川吉宗の1720年。犯罪者に対し、中国で行われていた「黥刑(げいけい)」と呼ばれる、顔や身体に文字や印などの小さな入れ墨を彫る付加罰が科されるようになった。前科をさらすものだが、その入れ墨を隠すために、その上からさらに大きな入れ墨を彫る前科者たちも出始めた。
その後、1766年ごろには侠客(きょうかく)たちに般若やろくろ首の大きな入れ墨を彫る人たちが現れた。さらに火消しや職人たちの間でも入れ墨が流行ったという。
「火消しであれば『水を呼ぶ』というおまじない的なものだったり、寺社に仏像などの彫刻物があるように、神仏に近づくために体に彫るという意味合いがあったようです。ただ、武士は絶対に入れませんでしたし、町人もごくわずか。社会全体から見ればごく少数の『はねっかえり』の人たちで、当時は憧れの視線で見られる一方で、敬遠される側面はあったのだと思います」(山本教授)
明治時代に入ると、入れ墨は法により規制されるようになった。
といっても、現在の軽犯罪法のようなもので科料程度ですんだため、職人らが彫る習慣は続いた。日本に来た外国人の間で彫師の技術が評判となり、記念に入れ墨を彫って帰国する外国人もいたそうだ。
戦後の1948年に定められた軽犯罪法では、入れ墨に関する規制はなくなった。
「戦後しばらくはお風呂のない家が多く、銭湯で職人さんたちの入れ墨を目にする機会が日常にありました。しかしその後、家でお風呂に入る人がどんどん増え、他人の裸を見る機会が減っていきました。さらにヤクザ映画などの影響もあり、入れ墨=反社会的勢力という印象が強くなっていったのだと考えられます」(山本教授)
政府は6月中にも訪日外国人観光客の受け入れを再開する方針だ。インバウンドが回復すれば、近い将来、入浴施設のタトゥー問題について再び議論が起きるかもしれない。(AERA dot.編集部・國府田英之)