戦後すぐに出された給食はといえば、
「脱脂粉乳とトマト缶を使ったシチューで、パンはまだでした。でもGHQは日本にパン文化を定着させることを狙い、パン職人を増やすよう努め、パンも登場し始めます」(吉田さん)
コッペパンも含めた完全給食は50年に、まず8大都市(東京・京都・大阪・横浜・名古屋・神戸・広島・福岡)で実施された。
あとは全国に広がっていくだけ。順風満帆と思いきや、なんと翌年、給食はいきなり廃止の危機に陥ってしまう。
51年。サンフランシスコ講和条約が結ばれた。
それに伴い、日本は連合国から主権を承認された。すなわち占領国でなくなったわけだ。これは、給食用物資の財源であったガリオア資金の打ち切りを意味する。
子どもたちの給食をどうするか? 吉田茂内閣の池田勇人蔵相は、給食への国庫補助を打ち切るべきだと主張した。「全生徒に同じものを食べさせるのは社会主義だ」とも語ったという。
天野貞祐文相が反対したが、閣僚たちは池田蔵相を支持した。
これが覆ったのは、全国で給食存続運動が起きたからだ。内閣はその動きに押される形で、給食を維持。前述のように52年から、全国の小学校で完全給食が実施されるようになったのである。
この頃から動物性タンパク質としてよく利用された食材があった。
「鯨の竜田揚げは、昭和20年代後半(1950年代前半)から登場しています。でも昭和50年代になり捕鯨が制限されると鯨肉の価格は高騰し、主に安い鶏肉に替わっていきました」(吉田さん)
給食で鯨を食べたか否かで、世代が分かれることになる。
■業界が奮闘したソフト麺の導入
しかし今でも年に1度だけだが、給食に鯨の竜田揚げを出す学校がある。宮城県の女川町立女川小学校と女川中学校だ。女川港にはかつて、年間200~300頭の鯨が水揚げされていた。同町教育委員会が説明する。
「郷土の歴史を知ってもらうため、給食に出すようにしています。若い世代は鯨の料理の仕方がわからないので、給食で食べて鯨の味を知るのが大事だと考えています。今年は竜田揚げに胡麻味噌をからめてみました。毎年楽しみにしていると語る子も多いです」
同町に隣接する石巻市にある木の屋石巻水産は、今も鯨の竜田揚げを販売している。同社広報担当者によれば「地元では子どもから大人まで人気ですが、通販では年配の方からのご注文がほとんどですね。給食に準じた昔ながらの味にしています」というから、懐かしの味を取り寄せてみるのも一興だろう。