日本初の学校給食は、住職たちの善意で始まったおにぎり、塩鮭、煮浸しなどだった。
「その後、各地の篤志家らによって、主に貧困児童を対象に給食が広がっていきます。国も施策として取り上げるようになりました。物資が少なくなった戦時中は、すいとんなどを出していました」
と説明するのは、埼玉県学校給食会参与で学校給食歴史館(北本市)館長の吉田昭夫さんだ。
敗戦後、国内には満足な食料もなく、子どもたちの健康もそこなわれていた。アメリカはララ(アジア救援公認団体)やユニセフを通して食料を日本に送ったうえ、ガリオア資金(占領地域救済政府資金)が給食の原資として使われた。
GHQは、どんな食材が子どもたちの健康にとって役に立つか、事前に調査をしたという。1946年、GHQの公衆衛生福祉局栄養部長を務めていたポール・E・ハウ大佐が、突然、東北大学の近藤正二教授(後に名誉教授)を訪ねた。
「近藤教授は、仙台市内の小学6年生の身体測定に関するデータを持っていました。それに基づいた意見を求めたんです」 と語る吉田さんが調べた文献によると、二人の間で以下のようなやりとりがあったという。
■池田勇人の論で給食廃止の危機
近藤教授「ただでくれるなら何でもいいです」
ハウ大佐「小麦粉はどうか? 脱脂粉乳でもいいか?」
近藤教授「脱脂粉乳をもらえるなら、このうえないです」
ハウ大佐「なぜ脱脂粉乳?」
近藤教授「栄養的に優れていますから」
同年11月にララ物資350トンを積んだ船が横浜港に到着。そのうちの75トンは、学校給食用の脱脂粉乳、スープの素、ソーセージなどだった。翌12月には東京・神奈川・千葉の3都県で、ララ物資を用いた給食が試験的に始動したのである。
その後、全国に広がっていった給食は、空腹に苦しんでいた子どもたちの貴重な栄養源となった。早くも47年、近藤氏はハウ大佐に、仙台市の児童の体格が良くなったと感謝の意を伝え、ハウ大佐も喜んだそうだ。
余談だが近藤氏は健康長寿のためには納豆を食べるのが良いと考えており、ハウ大佐にそう進言し、有用性を認めさせた。全国納豆協同組合連合会はHPに、「戦後の納豆を救ったハウ大佐」と題した記事を掲載している。
もし国内で米がたくさん生産されていたなら、給食は納豆ご飯が中心になっていたかもしれないという想像もはたらくが、実際は当初からアメリカの小麦輸出戦略に組み込まれていたようだ。