■操縦から事業認可申請まで何でもやった
チャーリィさんの強みは飛行機だけでなく、航空会社の業務に精通していることだ。
「昔、アメリカで飛んでいたんです。20歳のときに飛行機の操縦ライセンスをとって、小さな航空会社でロサンゼルスからプライベートジェットを運行したり、グランドキャニオン行きの定期便の副操縦士をやっていました。ところが、会社がつぶれてしまい、日本に帰ってきた」
ちなみに「チャーリィ」はアメリカに暮らしていたころからの呼び名だという。
帰国後は、スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)の立ち上げメンバーに加わり、事業認可を得るため、国土交通省航空局に通った。
「実は私、社員第1号なんです。アメリカの航空会社でさまざまな仕事をしていた経験を買われました」
その後、コンチネンタル・ミクロネシア航空(現コンチネンタル航空)に転職。
「日本支社長が『うちに来ないか』って、引っ張ってくれた。ここでも何でもやりました。空港のオペレーション、地方空港事務所の立ち上げ、営業とか。そのうち、親会社のコンチネンタル航空が成田からニューヨーク、ヒューストンに直行便を飛ばし始めたので、その要員として毎月アメリカに行っていました」
■ギネス記録に認定されている
写真家になったきっかけは2001年の同時多発テロ事件だった。
「減便で経営が悪化して、人減らしが始まったんです。私は残れたんですが、結局、サラリーマンは性に合わなかった。これを機に退社して写真家になりました。実は、もう自分の写真の会社を興していたんですけど」
外資系の航空会社では転職が当たり前なので、チャーリィさんの知人がさまざまな会社にいた。そこで持ち前の営業力を発揮した。
「『写真家になったから、広報を紹介してよ』と言ったら、みんな快く引き受けてくれた。それで仕事が軌道に乗りました」
ちなみに、飛行機の写真はいつから撮っていたのか?
「もう子どものころから羽田空港に通って、飛行機を写していました。会社員時代も航空雑誌に連載を持っていたんです。出張に行くついでにかなり撮っていましたね。知られていない空港を発掘するのが好きで、結構変な場所に足を運びました」
実はチャーリィさん、「世界一多くのエアラインに乗った人」として、ギネス記録に認定されている。
「審査は結構厳しくて、名前が入っている搭乗券がないとだめなんです。200社以上乗って、認められたのは156社。まあ、たまたまギネス記録がとれた、という感じなんですけど」