人が自助志向になるのは、「ネガティブなもの、相手にとってマイナスな要素を見せてしまったら、誰も自分をもう受け入れない」とする思い込みが大きいんですよ。だから「いろいろ苦しくても、僕は自分ですべて解決しており、迷惑をかけていません」という態度から、外れることができない。

 そうした風潮がコロナ禍と遭遇した結果、生じたのが過剰自粛の問題です。「ちょっとでもマイナス(感染)の可能性をもたらしかねない者は、寄ってくるな!」という発想にみんなが陥り、「誰もがどこかで他人に迷惑をかけているのだから、ある程度は相手のマイナスも受け入れなければ、自分だっていつか追い出されちゃうじゃないの」と考える世間知が失われていた。SNSでも一度炎上するだけで「つきあうと損をしそうだから」と、親しかった人が去っていくのが今の日本です。

■マイナスを受け入れる社会に

 事件の2か月前に『過剰可視化社会』(PHP新書)を出したとき、訴えたテーマも同じことでした。ルッキズム(見た目)に頼った政治手法や社会運動ばかりが蔓延(まんえん)した結果、「見ていて楽しい」形でしか世の中にメッセージが届かなくなっている。満面の笑みで爽やかに自分の体験を語る「成功したマイノリティー」ばかりを特集して、ダイバーシティー(多様性)を説くようなメディアの姿勢が典型です。

 しかしポジティブなものを分けあうだけなら、資本主義の企業でいいわけでしょう。そうではなくネガティブさも含めて分けあえるところに、国家や共同体、友達や仲間、あるいは家族の価値があった。そのことをもう一度、思い出す時が来ています。

 事件後の報道でいいなと思ったのは、亡くなった安倍さんの「功績を顕彰」して神格化するような論調は、意外に多くないと感じる点です。むしろ気弱な性格で難病に苦しんだり、第一次内閣を投げ出したり、昭恵夫人の言動が炎上したりと「いろんなマイナスを抱えながら、家族や仲間とやってきました」といった記事がよく読まれています。ひょっとしたらそれこそが、安倍さんの最後にして最大のレガシーかもしれません。

(構成 編集部・高橋有紀)

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