■究極のネオリベラルなテロリズム

 メディアが伝える限りでは、容疑者の歩みは「孤独な人生」の極北といえるものです。家庭崩壊の後、職も転々としていて、「ここなら安心できる」「望むならずっといられる」場所や仲間を得た体験が一度もないように見えます。

 つまり、彼は人生のすべてを「自助」で生き延びてきたことになる。「共助」が受けられるなんらかの団体や施設に属したとか、生活保護等の「公助」に支えてもらって生活基盤を整えたとか、そうした形跡が(裏取りされた報道の範囲では)見られない。逆に働きながら複数の資格を取るなど、自分でできる努力はかなりしており、供述を信じるなら銃器の制作も暗殺の計画も一人で担っていた。いわば、ネオリベラルな「自助のテロリズム」とも呼べるでしょう。

 殺害の動機にしても、もし社会(の一部)から同情や共感を得ることが目的なら、たとえ嘘でも「いまの政治を許せなかった。国民の怒りを代表して俺がやった」といった供述をするはずです。現に、戦前のテロリストたちはそうしました。にもかかわらず今回の容疑者が家族の問題しか語らないのは、「自分の苦しさをどうせ誰もわかってくれないし、くれなくていい」と思い詰めているのではないでしょうか。

 自助志向が強い人とは、要は「頑張り屋さん」ということです。しかしテクノロジーに依存して相互の対話を放棄し、砂粒のようにバラバラな個人がめいめいに自助志向を強めたら、結果としてとんでもない方向に「頑張る」人も出てくる。自助社会の「お手本」とも呼ぶべき人物が起こした今回の事件から、そのことを私たちはよく考えるべきだと思います。

■ネガティブさをシェアできない日本

 事件の詳細については、司法の場での解明を待つべきでしょうが、こうした惨劇を繰り返さないために社会が目指すべき方向は、すでにはっきりしていると僕は思っています。「ネガティブさを共有できる関係を築く」ということです。富や快楽といったポジティブなものではなく、苦しさこそ他人とシェアするものなんだと、発想を変えていかなくてはいけません。

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