■もはや政治家に限られた問題ではない

 いわば、誰もが「安倍さん」のように襲われ得る社会が始まっている。本人が「え、なんで私がそれの象徴だということになるんですか?」と思っても、相手は一方的に「憎むべき大きなものの象徴」を見いだして攻撃してくる。今日はたたく側だった人が、明日はたたかれる側という例も珍しくありません。

 フェミニズムをはじめとする新しい社会運動が掲げた「個人的なことは政治的だ」というスローガンは、多くの達成を勝ち取りましたが、いまはむしろその反省が必要とされる時代です。個人としての体験を政治化するのは、必ず「それをなんらかの象徴に仕立てる」行為でもあり、丁寧に進めなければテロルを招き寄せます。

 今回の事件でいえば、家族を壊した新興宗教という「悪の象徴」を安倍さんに見いだして殺害しても、失われた容疑者の家庭は返ってこない。むしろ大切なのは彼の苦しみを、個人としての体験のままに誰かがケアし、政治化しないで済むようにしてあげることではなかったか。そんなふうに感じました。

■自作の銃に見た自助志向の極地

 もうひとつ今という時代の潮流を感じたのは、やはり本人の供述によれば使用された銃が「自作だった」点です。ここ2年間のコロナ禍で顕著になっていた「テクノロジー的な自助志向」と呼ぶべき風潮の、終着点を見た気がしました。

 優れたテクノロジーやウェブサービスさえあれば、誰もが他人に頼ることなく、スマホをちゃちゃっと操作して一人でも楽しく生きていける。そうした雰囲気が平成末から高まっていましたよね。だから令和のコロナ禍でも、「デリバリーアプリで頼めるから、お店での外食は自粛でいい」、「各自が接触追跡アプリの表示に従う社会が理想。それ以外、別に話し合って考えることなんてない」といった言論が急速に広まりました。

「すごい技術やツール」があれば、人間はそれぞれバラバラなまま、どんな課題も一人で解決できる。だから社会全体を見渡す必要はなく、他人への配慮も要らない。そうした発想のグロテスクな帰結が、今回の事件ではないでしょうか。供述のとおりであれば、容疑者はネット上の情報から独力で銃器を自作し、有力政治家の殺害という最高度のハードルさえ越えてしまったのですから。

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彼は人生のすべてを「自助」で生き延びてきた