大阪生まれの辻田さんにとって、この街は自然との距離がとても近く、自分たちの手で収穫した山や海の幸を味わう生活は新鮮だった。
それが祖母の見た70年以上前の風景と重なった。
「ああ、おばあちゃんが言っていたことは本当だったんだな。こういう感覚で暮らしていたんだな」ということが年々わかってきた。
「夏の終わりになると、すぐ近くの山で『フレップ』というベリーを摘んで、ジャムやジュースにしたり、シロップ漬けにしたりするんです。樺太に住んでいた人にとっては思い出の味で、フレップ摘みの話もよく聞いていた。そんなに簡単に見つかるものなのかな、と思っていたんですけれど、実際に山に行ってみると、ほんと、めちゃくちゃある」
春に揚がる大量のシシャモの話も強く印象に残っていた。
「海に行って、バケツを投げたら、シシャモがいっぱい入ってきたとか。そんな話はぜんぜん想像がつかなかったんですけれど、いまでも現地の人たちが網をポーンと投げるとシシャモがたくさん捕れる。春になるとそれを干す網戸みたいなものが町中、いたるところに置かれている。70年くらい前とあまり変わっていないことを感じた」
■帰国事業の一方、住み続ける
一方、この街で暮らす日本人に対してかけられた「かわいそう」という言葉がずっと心に引っかかっていた。
「墓参で訪れたおばあちゃんたちが『日本に引き上げていたら、こんな不便な暮らしをしなくてもいいのに』って、言っていたんです。道は砂ぼこりの上がる未舗装道路だし、蛇口をひねると水が茶色い。こんなところに住んでいて、かわいそうだって」
1990年から一時帰国事業が始まって以来、日本を訪れ、そのまま永住帰国する人は多いという。
それでも、ナージャたちはずっとこの街に住み続け、しかも、とても心が満たされているように感じた。それはなぜなのか、ずっと不思議に思っていた。
思い切って本人にたずねると、「日本に帰国したい気持ちもあるけれど、やっぱり、家族がいる。もうずっとここにいて、なんでも勝手がわかるし、気の知れた仲間もいるから、ここにいるほうがいいって」。
辻田さんも北海道で家庭を築き、家族が増えると、そんな「ナージャたちの気持ちがなんとなく、分かるようになってきた」。
■かつてのように閉鎖された国境
そんななか、新型コロナの影響でロシアとの国境は実質的に閉鎖されてしまった。
「悔しいなあ、と思うんです。稚内に行くと余計にそう思う。サハリンが見えるから。ナージャのご飯が『お母さんの味』みたいになっていて。もう、親戚に会う、みたいな気持ちで、会いたいな、って思う。でも、行けない」
辻田さんは長年、故郷の地を踏むことのできなかった引き揚げ者たち無念さを思う。
「そんな心境の変化もあって、また行けるようになったら、写真が変わるかな、と思ったりする。でも、もうそこで終わりにしようかな、と思っています。なんとなく、見たかったものが見えましたから」
(文=アサヒカメラ・米倉昭仁)
【MEMO】辻田美穂子写真展「カーチャへの旅」展
入江泰吉記念奈良市写真美術館 7月10日~8月22日