高校卒業後、辻田さんはビジュアルアーツ専門学校・大阪で写真を学んだ。
「百々俊二さんのゼミで『絵は家にいても描けるけれど、写真は現地に行かないと撮れない』みたいなことを言われたんです。それで、(ああ、樺太に行ってみよう)と思った」
最初は卒業制作を撮るつもりだった。恵子さんとともに墓参団に加わり、ウグレゴルスクを訪れた。
しかし、墓参団の一員では制約が多く、思うようには撮影できなかった。
「1週間の日程では実質4日くらいなうえ、自由行動ができない。それで、ぜんぜん撮れなくて」
■残留邦人ナージャとの出会い
転機が訪れたのは2012年、3回目の墓参団の旅だった。そのとき「現地に知り合いができたんです」。
団長に自由行動を願い出ると、「1日ならいいよ」と、ホテルではなく、現地の人の家に泊まることが許された。
ところが、何かの手違いで、その人の家にはすでに別の人が泊まることになっていた。ホテルの前で途方に暮れる辻田さんに、「うちに来なさい」と、声をかけてくれたのが加賀谷ナージャさんだった。
彼女は戦後生まれの日本人で、墓参団が来るといつも歓迎会を開いてくれるメンバーの一人だった。
「とても面倒見のいい人なんです。それにあまえて、翌年からはずっとナージャの家に泊めてもらうようになった。いつ行っても嫌な顔一つせずに、ものすごい量のごちそうを作って待っていてくれるんです」
同じころ、辻田さんは大阪から札幌に拠点を移した。
「全国樺太連盟」という旧樺太からの引き揚げ者を中心とした団体があり、その実質的な拠点が札幌にあった(会員の高齢化のため、今年3月に解散)。
「そこにはものすごく貴重な資料がたくさんあって、それをじっくり見たくて、引っ越してきたんです」
そこで目にした資料を基に、現地では恵須取神社の跡地など、日本時代の遺構を訪ね歩いた。
「ナージャもいっしょに歩きながら案内してくれました」
■重なる70年以上前の風景
すると、次第に写真の内容が変化していった。
「最初は、おばあちゃんといっしょに思い出の地を歩いて、70年たった現地を見つめる、みたいな写真だったんです。どんどん目新しいものが飛び込んでくるので、『旅写真』みたいなものも混じっていた」
ところがいまは、「もう、旅写真じゃないんですね。ナージャと出会い、彼女の日常の暮らしを通して、いまのウグレゴルスクを見た、という感じ」。