(撮影/写真部・東川哲也)
(撮影/写真部・東川哲也)

――養成所を卒業後は、順風満帆な芸人人生でしたか?

卒業後はあえて「1年間遊ぶ」と決めていたので、芸人としてはダメでした。当時はダウンタウンさんの人気がとにかくがすごかった時代で、その脇には今田(耕司)さんや東野(幸治)さんらがいて、そっちに入ってもどうしようもできない。もちろん入れてもらえるかどうかもわかりません。だから1年間遊んで、エピソード話をたくさん作ろうと決めたんです。そうこうしているうちにダウンタウンさんが東京に行くことになって、若手の登竜門だった2丁目劇場にあまりお客さんが入らなくなったんです。そこで「新しくプロジェクトを立ち上げるオーディションをします」となって一緒にアルバイトしていた蛍原さんに「一緒にやるか」と声をかけて、雨上がり決死隊ができたんです。

――そのときにできたユニットが「吉本印天然素材」ですね。

はい。熱狂的なファンがついてくれて、若手にしては仕事も収入もありました。

――そのころの宮迫さんの美しいドロップキックはいまでも記憶に残っています。

ありがとうございます。「西日本一美しいドロップキック」と言われてましたから(笑)。

――そのドロップキックはどのようにして生まれたんですか?

実は僕、小学生の頃に塾を「クビ」になってるんです。

――「クビ」ですか?

塾を休んだ日があって、その日は英語の筆記体を習う授業だったんです。でも僕は休んでるから筆記体がわからない。だから次の日に塾長に「わからないんでブロック体にしてください」と言ったんですけど、4回無視されて。それで黒板を向いている塾長に、助走をつけてきれいなドロップキックをかましたったんです。それで親を呼ばれて「クビ」です。でも小学生を4回無視したらいかんでしょ。

――そんな誕生秘話があったとは知りませんでした。

まあ、そのドロップキックも今や死んでしまいましたけどね。滞空時間の長いジャンプをして、空中で静止をして、相手を押しながら蹴る。調子がいいときは相手のこめかみまで届いてました。でも年齢を重ねるとその打点がどんどん低くなっていくんですよ。狙った場所を蹴られなくなって、ケガも増えてきたので、「めちゃイケ」の最後の方で蛍原さんにやったときはもう膝でしたからね。それで相方と真剣に話し合って「もうやめとこう。互いに大きなケガするわ」と。塾長で始まり、蛍原さんで終わりました。

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