そしてあの浜辺の風景。そこに私が見落としていたものがあった。
「白と黒の境界線のあいまいさ。実は、波打ち際には線はないんですよ」
言われてみれば、そのとおりで、シャッターを切るタイミングによって、その場所の白と黒が入れ替わる。いや、よく見ると、波が引くとき、潮が砂浜に吸い込まれ、その輝きがうっすらと残っている。要は境界線があいまいなのだ。
「いまの世の中は、なんでも白と黒で単純化してしまうでしょう。でも、実際の世界はそうじゃない。あいまいさ、というものが存在している」
■流れに乗る必要性は感じなかった
展示の後半、アイスランドの風景は突然、身近な日本へと切り替わる。温かみのある景色。しかし、竹沢さんは淡々と「コロナのパートです」と言う。それはまさにいま、世界中の境界線を意識させる分断の象徴という。
「これまでぼくは海外ばかりを写していたんです。だから、コロナがなければこのパートはなかった」
新型コロナ感染症の広がりによって、海外への道は閉ざされてしまった。しかしそれが、自分が住む日本の風景を見直すきっかけになったという。
「いろいろな人から『撮りに行くな』『みんな我慢している』とか、ブーブー言われながらも」、桜の花を追い求めて関東から関西を巡った。「そんな同調圧力みたいなもので自分の行動を決めたくなかった」。
桜の撮影以外でも各地に足を運んだ。そこで気づいたのは、この国の、名もなき場所の面白さだった。
「自分の価値観で見たとき、(ああ、これはすごいな)というところが日本にはたくさんあると、思いましたね」
九州・国東半島のほとんど観光客が訪れない場所。そこで偶然見つけたのが、あの仏像だった。
「仏像って面白くて。撮ってみたいな、とずっと思っていたんです」
しかし、写したかったのは「仏像の美しさ」ではない。それを写すのは「土門拳から始まる、確立された撮り方であって、その流れに乗る必要はまったくない」と思っていた。撮りたかったのは、仏像の、目には見えない「意味合い」だという。
「本来は仏像というものに意味はないんです。みんな仏像に手を合わせるでしょう。でも実際は、仏というものを信じる自分の内面、心の奥底に存在する目に見えないものに対して手を合わせている。仏像というのは目に見える形として、仮にそこに置かれているわけです」
そのとおりかもしれない。しかし、それが今回のテーマ、境界とどう結びつくのか?
「心の底にある目に見えないもの。それを知るために仏像が用意されている。そこに目に見える世界と、目に見えない世界との境界線が発生している」
なるほど、仏像を境界の象徴としてとらえ、それをブラすことで、「目には見えないビジュアル」を写し出し、境界線のあいまいさを表現しているわけだ。