次の写真は、宮松金次郎氏が撮られた杉並線時代の265型。現車は1952年11月から杉並車庫で休車になっており、売却の直前に撮られた貴重な一コマ。木造車体の外観が良く判り、シングルルーフ上にはダブルポールと水雷型の通風器を装備していた。一段下降式の客室窓は下半分が板張りで、ガラス不足だった戦後の世相を反映している。
■都電旧3000型の面影を訪ねて
1923年に登場した東京市電3000型は低床式路面電車として、乗客から好評を博した。震災復興期に610両が量産され、戦前の東京市電を代表する車両となった。震災や戦災で400両以上を失い、戦後には196両が残存したが、1949年に始まった鋼体化改造で大幅に両数を減らしていった。改軌して杉並線に残存した3233・3234の2両が、1952年に2000型に鋼体化改造され、大所帯を誇った旧3000型は消滅している。
前述の鋼体化で余剰となった3000型の旧車体を秋田市電が譲り受けた。都電6000・4000型の車体メーカとして知られる日本建鉄が、別途調達した台車や電機品を旧車体に艤装して、旧3000型の再生車が誕生した。1953年日本建鉄の新造名義で、秋田市電30型31・32として就役している。
秋田市電の写真は旧都電3233だった秋田市電31。東京市電を代表した旧3000型の面影を色濃く残す秋田市電の30型は、都電ファンとして是非にも記録に残したい車両だった。秋田市電の撮影当日、31・32の二両は予備車として不稼働だったため、交通局車庫を訪問する。東京からの来訪を告げ、撮影の許可をいただいた。
矩形の検修庫内に休んでいる31が、ポールをあげて庫外に出てきた。憧れのレジェンドに対面する感激の一瞬だ。形式写真撮影用に携行した「ヤシカA型」二眼レフカメラに120サイズモノクロフィルムを装填して、撮影が始まった。
車体の外板は簡易鋼体化されているが、まさに写真で見た旧3000型のイメージそのものだ。台車が高床式の田中S35型に振り替えられ、やや腰高のフォルムになったのが惜しまれた。三脚を立てて絞りを深く絞り込み、納得のいく撮影に笑みがこぼれた。車庫の方に「はるばる東京からやって来た甲斐がありました!!」と深謝して車庫を辞した。
秋田市電が運転休止されたのは、筆者の訪問から五カ月後の1965年12月31日だった。そのまま復活せず、翌1966年3月末日に廃止されている。
■撮影:1966年5月11日
◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。
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