高性能試作車として希少な存在だった6500型。日章旗を掲揚して元日の銀座通りを走る晴れ姿。旧様式の菱形系統板がベストマッチ。画面右側に旧三菱銀行京橋支店の瀟洒な建物が写っている。銀座二丁目~京橋(撮影/諸河久:1964年1月1日)
高性能試作車として希少な存在だった6500型。日章旗を掲揚して元日の銀座通りを走る晴れ姿。旧様式の菱形系統板がベストマッチ。画面右側に旧三菱銀行京橋支店の瀟洒な建物が写っている。銀座二丁目~京橋(撮影/諸河久:1964年1月1日)

■最小両数の形式は高性能の試作車

 当時在籍した旅客車20形式中、最小両数の一両だったのが6500型だ。

 交通局ではPCC車の導入とは別途で、防音台車、WN駆動などの高性能車の研究を進め、試作車をメーカーに発注していた。先に完成していた電機品やD19台車を、PCC車の嚆矢として1953年に急遽登場した5502に転用している。このため、高性能試作車は遅れて完成した車体に再発注した電機品と台車を艤装して、1954年3月にやっと就役した。本来は「都電初の高性能車」になるところだったが、その栄誉を逃がしている。

 車体は日本車輛東京支店、台車は住友金属、電機品は東洋電機製だった。車体寸法は6000型を踏襲したが、前面二枚窓のデザインや性能が異なるため、予定されていた6000型6291にはならず、新形式の6500型になった。試作車であるから増備はなく、一形式一両に終わった。

 写真は1系統上野駅前行きに充当され、銀座通りを走る6500型。塗装は当初から5500型と同じ高性能車の証(あかし)だったキャピタルクリームにエンジ色の帯を巻いていた。6000型と同寸法だったことが幸いし、1系の他に2系統や37系統にも使われた。華やかなPCC車の話題の陰でスポットライトを浴びることもなく、1967年12月の三田車庫廃止と命運を共にしている。

■最新の形式は1962年末に登場

 現在の東京都電荒川線(別称東京さくらトラム)の最新車は、2016年に登場した8900型になるが、都電全盛期の最新車が7500型だった。20両が日本車輛本店と新潟鐵工所で製造され、1962年末に就役している。1957年に増備した8000型以来5年ぶりの新造で「都電最後の新車」になった。車体寸法は8000型を踏襲したが、車体構造は軽量設計ではなく7000型のような丸みを帯びたデザインに変更。したがって、自重は7000型と同じ15.5tになった。2灯式前灯の斬新な前面デザインに加え、濃度を増した外部塗装が採用され、メディアの注目を浴びた。

都電では初めての新潟鐵工所で製造され、僚友とともに出番を待つ7515。「都電最後の新車」と謳われ、乗り心地を改善した鋳鋼製D23型台車を履いている。青山車庫(撮影/諸河久:1962年12月19日)
都電では初めての新潟鐵工所で製造され、僚友とともに出番を待つ7515。「都電最後の新車」と謳われ、乗り心地を改善した鋳鋼製D23型台車を履いている。青山車庫(撮影/諸河久:1962年12月19日)

 次の写真は7500型が青山車庫に配置された1962年末の撮影で、ピカピカの新車群が出番を待っていた。7500型はデビューした翌々年に開催された「東京オリンピック」の熱気に沸く、青山、六本木、銀座、神田など、都心の目抜き通りを走る6・9・10系統の路線で活躍した。

 1968年9月、青山車庫廃止後は荒川車庫と柳島車庫に転属。荒川線の時代になると、1978年までに16両がワンマン化改造を施工され、赤帯を青帯に塗り替えて稼働した。1984年からは、冷房付きの新車体への載せ替え工事が始まり、13両が新7500型に衣替えした。

「江戸東京たてもの園(小金井公園)」に原形に復元された7514と「都電おもいで広場(荒川車庫前)」にワンマン改造後の7504が保存展示されている。

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