平沼橋上を走る5系洪福寺行きの市電。車体側面窓上の広告板は東京オリンピックの開催時に体裁が悪いという理由で、1964年初夏から掲示されなくなった。市電の左右には日産ダットサン1000やトヨタパブリカの国産大衆車が見られるが、後ろからは1960年式のシボレー・インパラも走っている。平沼町~平沼橋(撮影/諸河久)
平沼橋上を走る5系洪福寺行きの市電。車体側面窓上の広告板は東京オリンピックの開催時に体裁が悪いという理由で、1964年初夏から掲示されなくなった。市電の左右には日産ダットサン1000やトヨタパブリカの国産大衆車が見られるが、後ろからは1960年式のシボレー・インパラも走っている。平沼町~平沼橋(撮影/諸河久)
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 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。前回に引き続き、本年3月に廃止50年を迎えた横浜市交通局(以下横浜市電)をお届けする。前回は初期に廃止された中央市場線を回顧したが、今回と次回で国鉄東海道本線、相模鉄道本線、帷子川を跨ぐ橋上に停留所があった平沼橋と尾張屋橋のエピソードを紹介する。筆者が15歳のときに撮影した写真をご覧いただきたい。

【写真】50年以上前の「相鉄線」や「横浜市電」の貴重な写真はこちら(計5枚)

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 東京都電編では、橋上に停留所が所在した白鳥橋(冨坂線/大曲)、古川橋(伊皿子線/古川橋)、御茶ノ水橋(錦町線/御茶ノ水橋)を、このコラムで既報した。横浜市電にも橋上停留所の平沼橋(平沼線/平沼橋)と尾張屋橋(浅間町線/尾張屋橋)が存在した。両橋とも国鉄(現JR)東海道本線と同貨物線(現横須賀線)と相模鉄道本線、両線の北西側を流れる帷子川(かたびらがわ)の上を乗り越える長いスパンの高架橋だ。

 今回紹介する平沼橋は1928年の竣工だった。橋上に敷設された市電平沼線(浅間下~高島町/1300m)が1930年6月に開業し、同時に平沼橋停留所が設置されている。

平沼線の橋上停留所

 冒頭の写真は、平沼町からの約300mの上り勾配を登り切り、平沼橋停留所に接近する5系統洪福寺前行きの市電だ。

 撮影日は春分の日で、掲揚された4本の日章旗が強く吹く春風にへんぽんとはためいていた。この市電は平沼橋停留所に停車して乗降を済ませると、平沼橋西詰まで下り勾配を下り、約300m先の岡野町停留所に向った。画面右手前が5系統間門行きの乗降に使用される平沼橋停留所の安全地帯だ。

 この界隈は平沼町(現在は平沼一丁目)で、1901年から1915年まで国鉄東海道本線平沼駅が置かれ、駅前の商業地として発展した。ちなみに、「平沼」の地名の所縁は、幕末期に地域の豪商平沼家が海浜だった一帯を埋め立て、平沼新田として開発したことによる。画面左端に僅かに写るガードが京浜急行電鉄本線で、路線軌跡の右側、ちょうど市電の裏側あたりの位置に1944年11月に廃止され、翌1945年5月29日の横浜大空襲で焼失した旧平沼駅の遺構が所在する。

相模鉄道本線の起点である横浜駅ターミナルを発車し、浚渫船(しゅんせつせん)が浮かぶ帷子川畔を走る本厚木行き下り列車。列車の右端に5系統の市電が走る平沼橋が写っている。横浜~平沼橋(撮影/諸河久)
相模鉄道本線の起点である横浜駅ターミナルを発車し、浚渫船(しゅんせつせん)が浮かぶ帷子川畔を走る本厚木行き下り列車。列車の右端に5系統の市電が走る平沼橋が写っている。横浜~平沼橋(撮影/諸河久)

 次のカットが、東海道本線、同貨物線、相模鉄道本線、帷子川を跨ぐ平沼橋(画面右奥)を地平から撮影した一コマ。画面手前を流れる帷子川畔を走るのが、相模鉄道本線の下り本厚木行き列車。相模鉄道本線の終点は海老名駅だが、1964年11月までは小田急電鉄小田原線の本厚木駅にも乗り入れていた。列車の先頭部から3両は、運輸省から当時の東京急行電鉄に割り当てられたモハ63系の譲受車で、相模鉄道ではモハ3000系を名乗っていた。最後尾のモハ2007は旧国鉄モハ31型の戦災復旧車両。1949年に本田工業が両側運転台仕様に復旧している。後年車体更新で2000系の中間電動車に再改造された。

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”金太郎の腹掛け”塗装