平沼橋から俯瞰撮影した相模鉄道本線と国鉄東海道貨物線と東海道本線。相鉄の「虎の子」超軽量車5000系の横浜行きが眼下を通過した。平沼橋~横浜(撮影/諸河久)
平沼橋から俯瞰撮影した相模鉄道本線と国鉄東海道貨物線と東海道本線。相鉄の「虎の子」超軽量車5000系の横浜行きが眼下を通過した。平沼橋~横浜(撮影/諸河久)

平沼橋上から横浜方向を撮る

 先ほど市電を撮影した平沼橋の横浜方向歩道から、眼下を走る相模鉄道本線の横浜行き上り列車を撮影している。この列車は4両編成の5000系で、1955年に当時大流行した国鉄「湘南電車」を模倣した正面2枚窓、金太郎の腹掛け塗装の外観で登場。全長18mのボディマウント方式・完全張殻構造の車体で、直角カルダン駆動装置の採用など、先進技術を誇る超軽量高性能電車だった。製造は日立製作所。手前の5013は1959年製で、空気バネ台車になっている。

 画面左側が帷子川で、相模鉄道本線、東海道本線貨物線、東海道本線の順で並んでいた。画面左奥には東京急行電鉄東横線の横浜~桜木町を結ぶ東海道本線跨線橋が写っている。

 訪問時は平沼橋停留所から勾配を下る5系統間門行きの市電にもカメラを向けた。偶然だが、2019年8月24日に既報した「横浜市電」冒頭のカラー写真と同じ1161号を撮影していた。

平沼橋から下り勾配を軽快に下る5系統間門行きに充当された1150型。日立製作所製KL2新型台車を履くが、性能は旧型車に準じていた。屋根上大形通風器の通風穴を閉ざした冬季仕様の外観。平沼橋~平沼町(撮影/諸河久)
平沼橋から下り勾配を軽快に下る5系統間門行きに充当された1150型。日立製作所製KL2新型台車を履くが、性能は旧型車に準じていた。屋根上大形通風器の通風穴を閉ざした冬季仕様の外観。平沼橋~平沼町(撮影/諸河久)

 こちらはワンマン化改造前のオリジナルスタイルで、双方の細部を比較すると経年の変化が判別できる。大型四輪単車800型の機器を流用し、車体をナニワ工機(現アルナ車両)で1953年に新造。全長12m、定員100名(座席定員26名)の中型ボギー車。屋根上に突き出した大形通風器が個性的だった。

無意識の「ハレ切り」

 最後の写真が平沼町停留所の間門方面行き安全地帯から撮影した5系統(補充車)洪福寺行き市電。横浜市電では車庫の出入車や臨時補充車は「補」の文字の入った系統板を使っていた。画面中央奥に約300m先にある平沼橋停留所の行先案内ポストが写っている。

平沼町停留所からのスナップショットは逆光撮影を強いられた。画面上端に京浜急行電鉄本線の高架ガードが写る。安全地帯右脇を旧仕様ナンバープレートのトヨペットクラウンが走り抜けていった。(撮影/諸河久)
平沼町停留所からのスナップショットは逆光撮影を強いられた。画面上端に京浜急行電鉄本線の高架ガードが写る。安全地帯右脇を旧仕様ナンバープレートのトヨペットクラウンが走り抜けていった。(撮影/諸河久)

 このカットは西日にカメラを向けた逆光の撮影状況だった。逆光撮影ではレンズフードなどを用いた「ハレ切り(画面外からレンズに入射する光をカットすること)」と呼ばれるテクニックを使い、画面上のフレアーを防止するが、画面上部に覗く京浜急行本線の高架ガードをフード代わりに使って太陽光を遮っていた。当時15歳の筆者とって、無意識の「ハレ切り」が逆光下の撮影を成功に導いてくれた。

 平沼線は1969年7月に廃止されたが、廃止前年に平沼橋の改良工事が始まり、軌道を片側ずつ移設する工法が採られた。そのため、橋上の平沼橋停留所は1968年5月で休止され、復活しなかった。

 平沼橋は市電廃止から約20年後の1988年に架け替え工事が実施され、橋長278m、幅員21mのアーチ橋が1997年に竣工した。橋上の市中心部と新横浜方面を結ぶ新横浜通りには、多くの自動車が昼夜絶え間なく行き交っている。

■撮影:1963年3月21日

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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