国鉄高島貨物線の跨道橋をくぐり抜けて終点中央市場に向う7系の市電。中央市場通りの左側にはヒルマンミンクス、日産ブルーバード310、右側にはマツダB360などが駐車していた。背景の神奈川会館は老朽化のため1983年に惜しくも解体された。神奈川会館前~中央市場(撮影/諸河久:1965年11月30日)
国鉄高島貨物線の跨道橋をくぐり抜けて終点中央市場に向う7系の市電。中央市場通りの左側にはヒルマンミンクス、日産ブルーバード310、右側にはマツダB360などが駐車していた。背景の神奈川会館は老朽化のため1983年に惜しくも解体された。神奈川会館前~中央市場(撮影/諸河久:1965年11月30日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。前回に引き続き、本年3月に廃止50年を迎えた横浜市交通局の路面電車(以下横浜市電)の思い出を綴る。前回は往年の車庫巡りを回顧したが、今回は戦後の復興時に横浜市中央卸売市場(ちゅうおうおろしうりいちば/以下中央市場)から、生鮮食料を運搬して市民の台所を支えた中央市場線を紹介しよう。

【写真】57年前の横浜「中央市場線」など、当時の貴重な写真はこちら(計6枚)

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 戦中戦後の物資輸送は燃料が欠乏したためトラック等の自動車輸送が破綻して、馬力や人力に頼る他はなかった。そんな不自由な時代に、東京の都電は1944年に勝鬨橋線から分岐して築地中央市場まで約1000mの引込線を敷設。貨物電車の甲1、甲400型を使って生鮮食料を輸送した。

 横浜市でも中央市場からの輸送事情が切迫した1948年11月に市電神奈川線の中央市場前(1949年に神奈川会館前へ改称)から分岐する中央市場線約600mを敷設。当初は市場への引込線として貨物電車が乗り入れた。翌1949年3月からは7系統(中央市場~八幡橋/9136m)の市電が中央市場への足として旅客営業を開始している。

 中央市場線は神奈川会館前の交差点を南東方向に分岐。複線で100mくらい進むと、そこから終点までの約500mは横浜市電唯一の単線で敷設されていた。

 冒頭のカットが国鉄高島貨物線をアンダークロスして中央市場に向う7系統の市電。方向幕は乗務員の早回しで八幡橋に変更されていた。国鉄跨道橋背後の濃いグレーの建物が震災復興事業の一環として1929年に竣工した「神奈川会館」で、クラシックコンサートが開かれるなど美しいステンドグラスと共に市民の憩いの場として親しまれた。この辺りから市場場外の商店が軒を連ね、東京の築地を彷彿させる市場の風情が醸し出されていた。中央市場通りの左側にはヒルマンミンクス、日産ブルーバード310、右側にはマツダB360などが駐車していた。

国鉄跨道橋上から撮影した中央市場線の単線区間を走る7系統八幡橋行きの市電。右にカーブした先には万代橋と横浜市中央卸売市場の建物が写っている。中央市場~神奈川会館前 (撮影/諸河久:1965年11月30日)
国鉄跨道橋上から撮影した中央市場線の単線区間を走る7系統八幡橋行きの市電。右にカーブした先には万代橋と横浜市中央卸売市場の建物が写っている。中央市場~神奈川会館前 (撮影/諸河久:1965年11月30日)

国鉄跨道橋上から俯瞰する

 前カットの画面右端に写っている小径を辿って国鉄線の跨道橋に上り、7系統八幡橋行きを俯瞰撮影している。中央市場通りの両脇が市場利用者の駐車ゾーンになっており、右側には日産ブルーバード310.スバル360、日産キャブオール、左側にはトヨペットマスターラインなど1960年代のクルマが駐車している。市電の背景が滝の川に架かる万代橋で、橋を渡った左側が1931年に開場した横浜市中央卸売市場の建物だ。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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