『わかりやすさの罪』武田砂鉄 著
朝日新聞出版より発売中

 語り得ないことを核に据えなければ、「考える」という営みは始まらない。考えるとは、語り得ないことをめぐる探究だといってもよいのかもしれない。この本のページをめくり読みながらそんな思いが去来した。

 作者は「言葉が加工される時に言葉を削ぎ落とす。あるいは、言葉に到達しない感情を削ぎ落とす」という常識に強く抗う。世人が「わかりにくい」と感じ、「削ぎ落と」そうとするものから目を離さない。なぜなら「人が考えていることは、吐き出されぬまま、形にならないまま、大量に堆積している」。それは作者の「考える」基盤となっているからだ。

 この語り得ない何かを人はかつて、「情」という言葉で表現してきた。作者はそれを「雑多な感情」とも語っている。あるところでは情愛というかたちをとることもある。読み進めながら、幾度も思いを新たにしたのは、作者のこの世界、そして人間への情愛だ。情愛などという言葉を、これまでの作者の読者は好まないかもしれない。しかし、言葉たりえないもの、「考え」として結実しないものと対峙するために、情愛のちからを欠くことはできない。この本で「愛」が正面から語られることはあまりない。しかし、「情」をめぐる思索は、その支柱だといってよい。

 作者が「考える」契機としているのは、テレビ、ラジオ、書籍で遭遇する言葉はもちろん、Amazonのレビュー、Netflixの番組、twitter、河合隼雄、ベルクソンに及ぶ。さらに「あいちトリエンナーレ2019」の騒動のあと、自らの思いを語った津田大介の言葉を引きながら、作者は「情」をめぐって次のように書く。

「偶然にも本連載で問いかけてきた議題がいくつも含まれている。個々人に差異があろうとも、それが合理的ではなかろうとも、連帯できるのが人間であるはず。それなのに『情報・感情・なさけ』が多くの問題を作っている。しかし、『情』が生んだ問題を解決するのも『情』なのだ、とする」。

 ただ、「わかりやすさ」を渇望する現代社会では、「愛」がそうであるように「情」という言葉もまた、「情」そのものを表現しづらくなっている。ある時代までは、一字で表現され、分断された心と心をつなぎとめていた、この不可視なはたらきをよみがえらせるのに、私たちは大きな労力を費やさねばならない。ある人にはそれは徒労に映るのかもしれない。しかし、私には言葉の守護者のように感じられる。

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