作者は自分にとって「文章を書く」とは「教示ではなく提示である。つまり、あなたに教えてあげますよ、ではなく、私はこう考えています、の提示だ」という。また、短絡的に「要約されないようにするため」であるとも述べる。読者はこの本から、武田砂鉄という思索者が、どう考え、どう書くかだけでなく、どう読んでいるのかを感じとるだろう。作者が引用する数々の文章がそれを明らかにする。たとえば、二十三年間、NHKの『クローズアップ現代』の「顔」を務めてきた国谷裕子の『キャスターという仕事』からは、次のような一節を引く。
「物事を『わかりやすく』して伝えるだけでなく、一見『わかりやすい』ことの裏側にある難しさ、課題の大きさを明らかにして視聴者に提示すること」。
これは引用による作者自身の内心の吐露だといってよい。ある対象を前に「わかりやすい」ことだけ知りたい、そう感じたとき、そこに関心はあるのだろうが、情愛はない。自分の大切な人が、何も語らず、涙さえ流さないで下を向いているとき人は、何に困っているのか、「わかりやすく」語ってくれ、とはいわないだろう。
昨年亡くなった批評家加藤典洋の最後のエッセイ集『大きな字で書くこと』にふれ作者は、加藤が自らの文章の「わかりにくさ」は、時事的なことを語りながらも「人が生きることのなかにはもっと大切な事」があり、それに比せば二次的なことに過ぎないという「『見切り』の感覚」に由来するという記述にふれ、そこに独語を折り重ねるようにこう書き記す。
「大切なこととは、自分にとって身近なことではなく、窓の外に飛んでいるチョウチョであり、公園を歩いている親子であり、つまり、自分がその時点で把握することができないもの、という感覚だったそうだ。大切なことは思索の外にあり、キャッチボールをするように考え続けることが必要になる」。
真に軽妙に語られる言葉が、浅い思慮から生まれるわけではない。むしろ、ある「軽み」は、深長な熟慮の果てにのみ生まれることを如実に感じさせる一節だった。