賞を始めるときの社内の空気と言えば、応募原稿を読むことになるので、「めんどくさい」「いいのがくるわけない」と総スカンだった。
小塚は編集長を退いたあとも、社内で最終選考に残す作品を選ぶ「賞の下読み」を続ける。が、気がつけばはや10年がたってしまった。
作品的にはいいものは出たが、しかし、「あたり」は出ていない。大賞をとった作品は出版をすることになっているが、初版4000部がせいぜいだ。もう潮時か。
ところが11年目の、2021年。その原稿はやってきた。
アガサ・クリスティー賞は、まず社外の書評家などに委託して1次選考をおこない、残った十数作品を、社内でまわし読みする。
『同志少女よ、敵を撃て』と題された原稿を書いた「逢坂冬馬」は、過去3度、賞に応募していたが、最終選考までいったことがなかった。
が、その年の原稿は違った。独ソスナイパー同士の筋の読みあい。ソ連の女性だけの狙撃兵の部隊ひとりひとりがそこにたどりつくまでの物語、そして友情すなわちシスターフッド。主人公セラフィマと教官イリーナの憎しみの果ての師弟愛。精緻かつ大胆に組み立てられたその小説は、まさに巻を措(お)く能わず、小塚は、最高点の5をつけた。
しかし、その時点で、小塚は、将来ベストセラーになると思っていたわけではない。社内選考会でも、「キャラクターがアニメっぽい」「仮に本になっても、売りにくい」といった批判もあった。
逢坂のその作品は最終選考にすすむ。
この最終選考会でも「最後のケーニヒスベルクの戦いは余分」と主張する選考委員がいた。他の選考委員が「ここで、重要な伏線が回収されている」と反論し、それに委員全員が納得、アガサ・クリスティー賞始まって以来初めて満票で大賞を受賞することになる。
しかし、このままでは、かつての大賞作品と同様に、初版4000部のスタートとなっただろう。
きっかけは、社内の下読みでこの作品を読んでいた編集統括部長の塩澤快浩が、副社長の早川淳に、「これ面白いから読んでくださいよ」と選考会直後に原稿を渡したことだった。