早川淳。早川書房の3代目で副社長
早川淳。早川書房の3代目で副社長
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 ノンフィクション作家・下山進さんの連載「2050年のメディア」が「週刊朝日」でスタート。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた下山さんが、メディアをめぐる状況を多角的な視点から語ります。第1回は大ヒットした『同志少女よ、敵を撃て』について。

【ベストセラー『同志少女よ、敵を撃て』その本がこちら】

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 昨年の11月、池袋の三省堂をとおりぬけようとした時に、この本が、タワーになって積まれているのを見て、早川書房は、いったい初版をどのくらい刷ったの、と心配になった。

同志少女よ、敵を撃て

 青い目で栗色の髪の少女が、雪の中腹這いになってスコープを覗いているイラストの表紙、著者名を確認すると「逢坂冬馬」というまったく知らない日本人の名前。「あいさかとうま」と読むらしい。

 独ソ戦を舞台にした、ソ連の女性狙撃兵が主人公の小説で、第11回のアガサ・クリスティー賞を受賞した、という。

 早川以外の出版社の編集者や営業担当だったらば、日本人が書いた独ソ戦を舞台にした小説、しかも、著者は一冊も本を出したことがない、というところで、「売れないよ」とそもそも本にもしないだろう。原稿すら読まないかもしれない。

 出版社では、たいがいの編集者は、その人の過去実績から本を出すかどうかを決めている。営業は初版部数を、やはり過去実績から決める。

 これは、過去一作も本を出したことがない新人の応募原稿に、可能性を見いだし、46万部のベストセラーにした出版人たちの「ベストセラー誕生」の物語。

 メディアの力について書くこのコラムの、サンデー毎日からの移籍第1弾として、前後編2週にわたってお届けする。

「10年やってあたりが出なかったらば、その賞はやめたほうがいい」

 翻訳書がメインの出版社である早川書房が、アガサ・クリスティーの生誕120年にちなんで、新人育成のための賞をつくろうとした時、選考委員を頼まれた北上次郎は、当時「ミステリマガジン」の編集長だった小塚麻衣子にそう言っている。

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