台北・士林夜市へ。カスタマイズできるスマホ装飾の店で夢中に(撮影/東川哲也)
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■土日は携帯に出たくない、新しい発想にパンチ食らう

 その後、東京駅の新人駅員の葛藤と成長を描いた『駅物語』も話題に。「朱野=仕事小説」との印象が強まった。そんな折に出会ったのが、当時、新潮社の小説誌「yom yom」の編集部にいた佐々木悠(31)だ。佐々木は朱野にこう伝えた。

「普通のサラリーマンが勤める会社で、弱者や底辺だからこそ見える社会を書いてほしい」

 佐々木自身、第2氷河期で就職活動は厳しく、周囲では「内定切り」も見聞きした。ただ、命を削る仕事は無意味だし、土日はきっちり休み、携帯には出たくない。

「ゆるい働き方をしている人が主人公でも良いのではないでしょうか」

 朱野は言葉を失った。職人の家系の血を引き、「猛烈社員」の父のもとで育ったからか、自身を追い込むことさえ、理想の「仕事人」の姿だと捉えていたふしがあった。

「自分のやりたいことをやる、まったく新しい合理的な世代の発想にパンチを食らった」(朱野)

 一方、佐々木はこう強調する。

「朱野さんと私の仕事に対する概念は8割一緒です。ただ、臨界状態から先に進む道だけが違う。初めから全部違ったら仕事できないですから」

 改めて考える「普通の会社員」とは何か。自分のそれは辛い記憶ばかりだった。だから深海の研究員や駅員など、自分とは距離を置いた仕事で表現してきた。腹を括り、正面から会社員を書くために、何ができるのか。

「そういえば、1日1回は必ず『今日は定時で帰りたい』と考えていた」

 その瞬間から物語が動き出した。自己肯定感が下がり気味だった時だからこそ冷静に分析でき、これまで自らの仕事観にはなかったキャラクターが語り始めた。
『わたし、定時で帰ります。』の単行本化に際し奔走した新潮社出版部の照山朋代(38)は、社内企画書にこう記した。「第2の『逃げ恥』を目指します! 火曜10時枠のドラマ化を狙います!」

「タイトルがキャッチー。何が書かれているか一発で分かる強みがあった。これはいける、と」(照山)

 営業と宣伝部門が会社員の立ち寄るエキナカ書店などに重点的に配本し、読者を獲得していった。

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