台北の大型書店・誠品書店でサイン会(撮影/東川哲也)
台北の大型書店・誠品書店でサイン会(撮影/東川哲也)

■「拾ってもらった」会社で自分をブラックに追い込む
 
 現役で早稲田大学第一文学部に入学し、3年次に念願の文芸専修へ。ところが、ある教授から「ビジネスとしての作家」の不経済性を延々説かれ、作家への道を諦めてしまう。これでは親からの投資が回収できない。第一、食べていけない、と。

 就職氷河期の寒風が吹き荒れていた。20社、30社、40社。ここまで否定され続けるか。「自分が悪い」「頑張りが足りない」。深夜、近くの線路わきで回送電車を見つめ続けた。4年生の秋、ようやくマーケティング会社に内定する。「拾ってもらった」。そんな思いが安堵と共に心を蝕んだ。

 文芸専修の卒論は小説執筆だった。旧満州(現・中国東北部)に渡り、引き揚げてきた母方の祖母を描こうと、一代記を書き上げた。すると、教授から「あなたの文章にはまったく魅力はないが、本屋に並んでいる小説にこれより面白くないのはいくらでもある」と言われた。学内文芸誌への掲載を打診されたが、史実やデータ確認をもっと徹底したかった朱野は固辞し、教授に手紙を書いた。

「私に才能があるのなら、今回載らなくてもいつか小説家になるでしょう。遠慮させて頂きます」

 謙遜か、大きく出たのか不明だった。でも、もう怖くない。私には就職先が決まっているのだ。

 初めて勝ち取ったサラリーマン生活。取引先は乳飲料メーカーや生活家電、住宅設備など多岐にわたった。裁量労働制だから何時に来ても怒られない。その代わり、通常の倍の仕事が急に入れば「精神力で乗り切ろう」というモードに突入する。繁忙の予測がつかず、体調を崩す人が出始めた。それでも朱野は自身を鼓舞する。「ブラック企業とは、朝礼で怒鳴られたり、回し蹴りされたり、帰れない日が1年以上続いているようなところ。うちは違う」。自らを「ブラック」に追い込み、仕事にのめり込んだ。

 6年後、心身困憊の末、「半年後に退職します」と宣言。その3日後に「リーマン・ショック」が起きた。転職戦線にも暗雲がかかる。仕事上の義憤を結婚前のパートナーに延々と喋り続けたある晩、こう言われた。

「相槌を打つのが辛い。首が疲れた。リポートにして提出してくれ」

 愚痴をそのまま書けば暗くなる。ならば面白く書いてしまえ。

 そんな思いを秘め、超高速で綴った物語が、なんと「ダ・ヴィンチ文学賞大賞」を受賞した。高校時代から憧れだった文芸誌だ。奇跡は終わらない。ほぼ同時に、約100倍の倍率を勝ち抜き、製粉会社から内定の知らせが届いたのだった。

「勤め先に知られるとまずいというので、(受賞者の)写真や名前を出すか相談しました。名前を変えれば、写真が見つかっても『違う人です』と言い張れる。そう話したのを覚えています」

 デビュー作となった受賞作「マタタビ潔子の魂」の編集を担当した、「ダ・ヴィンチ」現編集長の関口靖彦(45)は振り返る。

「満場一致で受賞が決まりました。新人賞に応募してくる小説の多くは、私小説モデルに近い作品が多い。朱野さんはエンターテインメントとして、読み手の目線を持つ点で、ずば抜けていた」

 一方、働き始めた製粉会社はじつに「ホワイト」な会社だった。ボーナスは満額出るし、定時には退社させてもらえる。上司は的確に指示し、やりがいのある業務をバランス良くこなせた。働きながら小説を書く生活が始まった。忙しくとも充実した日々。ところが入社半年で、会社が関西の同業社に吸収合併され、東京の事務所を畳むことになる。当時の上司・宮原雄祐(47)は申し訳なさそうに振り返る。

「面接時、僕が強く彼女を推したんです。優秀な人を採用したくて待ち続けた末に採用を決めました。それなのに……」

 大阪に転勤し、戻ってこられない。その暮らしに実感がわかず、辞表を提出した。

「会社がのみ込まれる様子をまざまざと見た。得難い経験でした。職は失いましたけど」(朱野)

 退路はない。作家で生きる。そう決めた。結婚したパートナーに「申し訳ないけれど無職にさせてくれ」と告げた。表計算ソフトで算盤を弾き、「今、引っ越さないと家計的に危ないから」と説得し、築年数の経過した狭い家に転居した。

 デビュー作の筆力に驚いた文藝春秋の編集者・篠原一朗(41)は、朱野をこう評す。

「世の中に対し、違和をどう感じられるかが、作家の一つの特性。彼女は繊細にそれに気づく。世の中へのルサンチマンや怒りを物語にできる」

 当時、幻冬舎にいた篠原は朱野と共に案を練り、半年以上の取材を経て『海に降る』を刊行した。海洋研究開発機構の有人潜水調査船「しんかい6500」の運航チームに属する女性を主人公にした物語だ。

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