1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は目黒駅前から日吉坂を巡る都電だ。
【55年が経過した現在はどれだけ変わった!? いまの同じ場所や当時の貴重な写真はこちら(計5枚)】
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駅の立地が、本来計画されていた場所と異なるというのは、意外とよくあることだ。
実は、JR山手線の目黒駅にも、そんな通説がある。
日本鉄道が敷設した山手線に目黒駅が開設されたのは1885年だった。当初の目黒駅は現在よりも南西側に位置する「権之助坂」を下った目黒川沿いの低地に計画されていた。しかしながら、蒸気列車への偏見などで地元住民が田畑の買収に難色を示したため、白金台地を開削する難工事を強いられ、北東側の現在地に追い上げられた、という。
その後、1906年に山手線は国有化され、1909年からは電車運転が始まっている。このような経緯から、目黒駅の所在地は目黒区ではなく、品川区の上大崎である。
■都民の足だった長距離路線
目黒駅を巡る路面電車の歴史も深い。
国鉄(現JR)目黒駅前に東京市電の目黒線が敷設されたのは1914年で、白金志田町(後年魚籃坂下に改称)から目黒駅前を結ぶ約2300mの路線だった。戦前は5系統(目黒駅前~東京駅乗車口)が運転され、終点の東京駅乗車口(現東京駅丸の内南口)の前をループ線で折返す異色の運転系統だった。
戦時中から終戦直後にかけての運転休止期間を経て、1948年の運転再開にともない、5系統の行先は目黒駅前~永代橋に変更された。山手の目黒駅前から下町の永代橋を結ぶ長距離路線として1967年12月に廃止されるまで、多くの都民に親しまれていた。
■目黒通りの拡幅で変貌
冒頭の写真は、目黒駅前で発車を待つ5系統永代橋行きの都電だ。西に傾いた晩秋の陽光が、杉並線から転属した2000型の軽快なフォルムを浮かび上がらせた。この2023は改軌改造後、1965年9月から三田車庫で再起して3系統などに活躍したが、わずか数カ月で目黒車庫に転属している。
画面右端に風呂敷包みを抱えた和装のご婦人が写っている。その容姿からは、芝白金台の土地柄を反映した上品な東京の山手(やまのて)言葉が聞こえてくるようだ。
次のカットは目黒駅前の近景だ。目黒通りは都電が廃止されてから、片側2車線に拡幅された。画面左中央にあたる北東側がセットバックされたため、半世紀前の家屋は何一つ現存しなかった。画面左側に目黒駅東口バスターミナルがあり、ここを発着する三つの系統(品93・黒77・橋86)の都営バスが走っている。後述する日吉坂上から清正公前方面に行くのには、目黒通りに停留所がある東98系統東京駅南口行きの東急バスが利用できる。
旧景の右端中央には右に分岐する目黒車庫への入出庫線が写っている。4・5系統を所轄する目黒車庫は、1927年に広尾車庫の分庫として開設された。戦災を免れたため、構内には市電時代からの矩形庫や設備が残されていた。都電が最大両数を記録した1963年の配置表によると、戦前生れの1000型、1100型が36両、戦後増備された3000型、7000型、8000型が13両の合計49両が配置されていた。このうち戦前型都電の割合は73パーセントを占めており、旧型都電ファンにとっては垂涎の車庫だった。