次のカットは目黒車庫で撮影したトラバーサーで転線する1000型の一コマだ。筆者も目黒車庫には数回撮影に訪れているが、車庫自体の敷地が狭いことも手伝って、満足な撮影成果を得られなかった。写真の1008は1933年の日本車輛製で、撮影時には車齢30年の古株だった。目黒車庫配置の1000型は空気バネ試験車の1007とか、1965年に羽後交通横荘線に譲渡された1032など、多士済々の役者が揃っていた。
■「白金火薬庫前」で始まった上大崎
目黒駅前の次の停留所が上大崎。1913年の開設以来、何度も呼称を変えた珍しい停留所だ。開設時の「白金火薬庫前」で始まり、半年後には「元白金火薬庫前」になり、昭和期に入った1933年には「海軍大学前」に改称された。さらに1940年には「上大崎二丁目」に変わり、戦時中の1944年には、隣接する白金台町に統合する形で廃止されている。戦後の1951年に「上大崎」として復活を果たした。
上大崎から白金台町を過ぎて300mほど走ると、日吉坂上停留所が見えてくる。ここから隣の清正公前までの間に、最急66.6パーミルの「日吉坂」を下ることになる。ちなみに、日吉坂の名称は、能役者の日吉喜兵衛に由来している。
目黒通りを走るカットは日吉坂上停留所で乗降扱中の5系統永代橋行きの都電だ。都電の背景には芝白金台町(現白金台)の旧い街並みが連なっている。左端の都バスは113系統(現東98系統)で、東京駅南口~等々力操車場前を目黒駅経由で結んでいた。
■都電廃止後の白金台は「陸の孤島」
都電が廃止されてから、現在、白金台の界隈は「陸の孤島」に甘んじていたが、目黒通りに沿って営団地下鉄(現東京メトロ)南北線の工事が1991年11月に着工され、2000年9月に目黒までの全線が開業した。画面左奥の目黒通り沿いに白金台駅も設置され、陸の孤島から脱している。
最後のカットが、清正公前から続く日吉坂の急勾配を上る5系統目黒駅前行きの都電。画面左奥の冬空に東京タワーの先端も写っている。市電の敷設以前はもっと急な坂だったが、敷設時に急勾配を緩和する工事が施工されたそうだ。
坂を下る途中の右手には「シェラトン都ホテル東京」があり、この地はかつての外務大臣藤山愛一郎の邸宅であった。ホテルの東側には、停留場名となっている加藤清正公を祭祀した「最正山覺林寺(かくりんじ)」の古刹がある。山手七福神の一つで、多くの参拝客が訪れている。
筆者の幼年時代、祖母のお供で桜橋から5系統目黒駅前行きに乗り、清正公前で下車して覺林寺に詣でた。祖母が「清正公様(せいしょこさま)」と発したひとことが、言霊(ことだま)となって脳裏の片隅に残っている。
■撮影:1965年11月21日
◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。
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