東京五輪まで9カ月を切った。日本フェンシング界にとって、太田雄貴がいない5大会ぶりの五輪となる。つまり、自分を頼れない。

「協会として最大限の支援はしますけど、運命を変えられるのは選手なんです。最後は腹をくくってやるしかない。自分の人生を豊かにするために、勝ってほしいな、と願っています」

 自身の将来の青写真はどんな風に描いているのか。

 日本協会会長の任期は21年6月までで、そこで身を引くつもりでいる。しがみつく気持ちは毛頭ない。「将来は政治家に転身?」と冷やかされることも多いが、それも強く否定する。

「サンフランシスコとか、アメリカの西海岸で暮らしてみたい。40歳で勝負できる力をつけていたい。日本国内でベンチャーを始めるには年を取りすぎていると思う。グローバルに勝負するには、最初から外国に出た方が早い」

 市場の潜在性を考えれば、東南アジア、インド、アフリカなどが良いのかもと考えつつ、妻や6月に生まれた長女と幸せに暮らすには、どこが楽しいか、が大事になる。「子育てに自分の人生をささげる、という方針はチーム太田にはないですね」。妻は信頼できる同志であり、仲間。愛しい長女は仲間が一人増えた感じだという。

「要はお金を稼ぐことは目的なのか、手段なのか。そこを明確にしないと。それに西海岸なら28年ロサンゼルス五輪にも関われるかもしれない。面白いじゃないですか」

 無意識なのだろうが、太田の思考回路は五輪とリンクしている。来夏、国際オリンピック委員会(IOC)のアスリート委員会の選挙に出て当選すれば、IOC委員の役割を担う。ちょうどロス五輪までの任期となる。運命に導かれるような五輪との縁は、切れそうにない。

(文中敬称略)
 
■おおた・ゆうき
1985年 大津市出身。3人きょうだいの末っ子。
 92年 滋賀・比叡平小に入学。
 94年 父の勧めでフェンシングを始める。
2001年 京都・平安高に入学。高校総体優勝。
 02年 史上最年少で全日本選手権優勝。
 03年 高校総体3連覇。
 04年 同志社大に入学。アテネ五輪に出場、日本人最高位の9位。
 06年 ドーハ・アジア大会で金メダル。準々決勝で福田佑輔(警視庁)を破っていた。太田は「兄のような存在の福田さんは、一緒に準決勝の対策を考えてくれた。福田さんのためにも優勝したかった」。
 07年 アジア選手権優勝。
 08年 北京五輪で銀メダル。日本フェンシング界初の五輪メダルだった。森永製菓に入社した記者会見で「いろいろな人に支えられ、ここに立っていると感じる。ありがとうございます」と感極まって号泣。
 09年 世界ランキング1位に。
 10年 世界選手権(パリ)の個人戦で銅メダル、団体戦も銅メダル。
 12年 ロンドン五輪男子フルーレ団体で銀メダル。ドイツとの準決勝で最後に回った太田は残り9秒から2点差を追いつき、延長戦で勝利。
 13年 2020年東京五輪招致にプレゼンターとして関わり、9月の国際オリンピック委員会(IOC)総会でスピーチ。現役復帰を宣言。
 15年 世界選手権(モスクワ)の男子フルーレ個人で優勝。五輪、世界選手権を通じ、日本選手が優勝したのは初の快挙。「五輪で2番、世界選手権も3番が最高だったので、優勝にすごく意味がある」
 16年 リオデジャネイロ五輪で初戦敗退。「金メダルは取りたかったし、取れなかったけれど、めざしたからこそ、今日の僕がある。本当に五輪に感謝」。現役引退を発表。
 17年 日本フェンシング協会会長に就任。
 18年 国際フェンシング連盟副会長に就任。

■稲垣康介
東京都出身。太田雄貴の五輪は出場した4大会すべてを現地取材。五輪取材歴は夏冬8回。本欄ではプロテニス選手・錦織圭を執筆。著書に『ダウン・ザ・ライン 錦織圭』(朝日新聞出版)。

AERA 2019年11月4日号

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