
スポーツ記者の仕事は、選手に「なぜ?」「どうして?」を問いかけ、そこから物語を紡いで読者に届けることだ。寡黙だったり、表現が苦手だったり、選手の個性はさまざま。太田の場合、試合の感想、分析、今後の目標など、コメントに試合経過をはめこめば、そのまま記事ができあがった。鋭い眼光に意志の強さを宿す少年が成長する軌跡を追いかけたい。そう感じた初対面だった。
起承転結があり、理路整然と話せる素養はなぜ身についたのか。小学校教諭の両親の元で育った家庭環境を探ると、見えてきた。
父義昭(67)は、絵本が「魔法のツール」だったと振り返る。
「絵本は言葉や言い回しを感覚で覚える最高の教材。短い時間で読めるし、主人公が苦難を乗り越えたり、仲間と団結して問題を解決したり、物語から人生を疑似体験で学べます」
その効果は即効性ではなく、「漢方的な効果というか、毎日続けることで、いつの間にか、多くの力が身につくんです」。
太田の語彙の豊富さは、口語表現にとどまらない。例えば、料理についての雑談になったとき、「安い値段」「低価格」とかではなく、会話の中で「廉価版」と言ったりする。冒頭の学校訪問のときも、空き時間に新聞を読み、ケータイでSNSからの雑多な情報にアンテナを張る。活字に触れる絶対量が多いのだろう。かつ、好奇心が旺盛で、記憶力も抜群に良い。
フェンシングを始めたのは小学3年のときだ。スーパーファミコンを買ってあげるという父のニンジン作戦に乗った。義昭は高校時代、テレビの「快傑ゾロ」にあこがれてフェンシングに没頭したが、大成しなかった。自分の夢を子どもに託そうと考えた。「兄や姉は見向きもせず、最後の望みが末っ子の僕だった」。有名になった今、太田は講演でこの逸話を披瀝し、聴衆の笑いを誘う。
「とにかく毎日、練習をする。ご飯のようなもの。継続は力なり」。それから父子は一日も休まず、大学2年の冬まで、実に4300日近く練習を続けることになる。
始めてからすぐに大会で勝った。成功体験は夢中になれる触媒だ。高校ではインターハイで前人未到の3連覇。高校2年のとき、史上最年少の全日本王者になった。
「僕は運動神経に優れていたから、勝てたわけじゃない。分析、戦略を含めて競技のもつ本質を理解するのが速かったのかも。好きとかじゃなく、勝つ確率が高いものに出会えたのが一番のポイント。僕はこれで勝負するんだ、というのを12歳で見つけていた」