TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。日本赤軍の元最高幹部・重信房子とその娘メイについて。
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大学を出た重信房子は、「ちょっと仕事の都合で、外国へ行ってくるね」と両親に旅立ちを告げた。
母は、娘の言葉を信じて、着ていく洋服のことなどに気を配ってくれたが「父は、『やすやすと帰ろうと思うな。しっかりと頑張れ』と言いました。もう会うことのない娘の旅立ちを理解していたように思います」(重信房子『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』幻冬舎)
これは僕が上梓した『愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家』(講談社)の一節。重信は世界革命を目指し中東に渡った。このノンフィクションで重信房子と父末夫、娘メイの物語を描いた。
執筆のきっかけは映画監督の若松孝二が漏らした一言だった。
「67年の秋だったかな。新宿で飲んでいたら重信房子に出くわしたんだ」。重信は22歳。佐藤栄作首相の東南アジア訪問阻止を目指す羽田闘争の年だった。「髪の長い綺麗な子だった。カンパをお願いしながらゴールデン街を廻っていた。がんばれって1万円渡したら、ありがとうございますって丁寧に頭を下げてくれた」
日本赤軍然(しか)り、三島由紀夫然り、全共闘世代のカリスマ若松は思想を問わず、生き方に共鳴するとメガホンをとった。
敗戦1カ月後、東京・世田谷に生まれた房子は小学校の先生になりたいと明治大学に進んだ。初めてデモを見たのは入学の日。夜間に通い、学費を自分で払うことにしたから学費値上げは困るとデモに加わり、革命家としての人生が始まった。
重信の足跡を追ううちに、父末夫が血盟団事件に関与していたことを知った。この事件は世界不況での格差と貧困の中で生まれたとされるが、父もまた右からの革命を目指していたのだ。
「67年の羽田闘争のあとだったと思う。泥まみれになって帰った私に、父が言った。『房子、今日の闘争はよかった。だけど、あれには、人を殺す姿勢がないな』。わたしはおどろいて、酒の盃を手にしている父をみつめた」と重信は『わが愛わが革命』(講談社)に記している。