一方、家康側の史料にも宿の周囲に怪しい一団が出没したという記述がある。光秀の意図を誤解した先物買いの仕業だろう。

 さて、先鋒の指揮を務める斎藤利三は、京の町中の木戸を通過するまでは幟や旗指物(はたさしもの)を掲げるな、潜り戸をくぐっていては時間がかかるから、木戸は押し開け、いくつもの筋を分進せよ、本能寺はさいかちの木(高く伸びるマメ科の樹)や竹藪を目印にせよ、と細部まで行き届いた指示をしながら本能寺を目指していた。京の街路は狭く、軍勢は幾手にも分かれて進まなければならない。細かく指示して、連絡を取り合いながら進ませなければ作戦計画に支障が出るからだ。

 当時の本能寺は現在の京都市中京区寺町の場所ではなく、中京区元本能寺あたりにあった。京における信長の定宿といえば妙覚寺と相国寺だったが、2年前に信長によって改修が施された本能寺がこの頃のメインである。東の西洞院川を天然の水堀とし、周囲に幅6メートル・深さ1メートルの堀をめぐらす。その内側には土塁が掻き上げられ、石垣で固められていたが、その防備は所詮間に合わせで、塀はまだ工事途中だったらしい。大軍に攻められればひとたまりもない手薄さであった。

 卯刻(午前六時頃)、明智軍はその本能寺を完全に包囲する。

(監修・文/橋場日月)

※週刊朝日ムック『歴史道Vol.7』より